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30年日本史00766【鎌倉末期】赤松円心の挙兵

 戦いのさなかの元弘2/正慶元(1332)年11月8日。邦良親王の子・康仁親王(やすひとしんのう:1320~1355)が立太子しました。これは極めて意外な出来事でした。
 正中3(1326)年に皇太子の邦良親王が26歳の若さで急死したことは既に述べましたね。邦良親王とは後醍醐天皇の甥に当たる大覚寺統の皇太子でしたが、その邦良親王の急死によって、皇太子の座が持明院統の量仁親王(光厳天皇)に移動したのでした。
 いま、大覚寺統の後醍醐天皇は隠岐に流され、持明院統の光厳天皇が御所にいるわけです。これによって大覚寺統は廃止かと思いきや、幕府は未だに両統迭立にこだわり、大覚寺統の康仁親王を皇太子に立てたというわけですから、大覚寺統の喜びはひとしおだったでしょう。
 朝廷が皇太子の誕生に沸いている頃、反乱軍は着々と京の襲撃を準備していました。12月9日、護良親王と楠木正成とが協力し、遂に敵の本拠地である京を攻撃しようと進軍して来ました。
 これに対峙したのは、六波羅探題が派遣した宇都宮公綱と赤松円心の軍でした。両者は摂津国芥川(大阪府高槻市)で激突しますが、護良・正成軍は深入りを避け、忍頂寺(大阪府茨木市)まで退却して行きました。
 この赤松円心とは播磨国(兵庫県南西部)を拠点とする豪族ですが、既に息子の則祐を護良親王の側近として送り込んでいたわけで、かねてより後醍醐天皇の倒幕運動に加わる意志を持っていたと考えられる人物です。なぜ六波羅が赤松円心を信頼して鎮圧部隊として送り込んだのかは謎ですが、予想通り円心はすぐに幕府を裏切ることとなりました。
 元弘3/正慶2(1333)年1月21日、赤松円心は護良親王の令旨を受け、苔縄城(兵庫県上郡町)で反幕勢力として挙兵しました。この赤松軍を討つため派遣された加持氏の軍勢や伊東氏の軍勢は、赤松軍に簡単にやられてしまいました。
 赤松軍のもとには倒幕を志す豪族が次々と集まり、軍勢はみるみる膨れ上がりました。赤松軍は東上して摩耶山城(まやさんじょう:兵庫県神戸市)へ入ります。閏2月11日、脅威となった赤松軍を討つべく、六波羅探題は六角時信(ろっかくときのぶ:1306~1346)率いる2万の大軍を派遣しますが、その六角軍と赤松軍の戦いについては後述します。
 この頃、反乱軍に苦戦する六波羅探題の現状を懸念し、幕府は新たに
・阿蘇治時(あそはるとき:1318~1334)
・大仏高直(おさらぎたかなお:?~1334)
・名越宗教(なごえむねのり:?~1333)
といった北条一族を京に派遣していました。これ以降、強化された六波羅探題と膨れ上がった反乱軍とがぶつかり合うことになります。

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