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30年日本史00327【平安中期】道長、内覧就任

 一条天皇は、
「関白の病の間、官・外記の文書は内大臣(伊周)をして見せしむべし」
との勅命を出す予定だったのですが、宣旨を作成した大外記の中原致時(なかはらのむねとき)に対し、伊周から文章を差し替えろとの圧力がかかりました。「関白の病の間」を「関白の病の替」にしろというのです。
 「間」と「替」ではニュアンスが若干異なります。「間」ならば、関白道隆が病に臥せっている期間のみ、伊周が代理を務めるということになります。一方、「替」ならば、関白道隆が病に臥せったから伊周が代理を務めるということで、道隆の死後には伊周が関白職を引き継ぐことになることが示唆されています。
 この目論見は結局未遂に終わり、勅命は「関白の病の間」という文章に落ち着きました。伊周の作戦は失敗に終わったのです。
 その後、道隆が病を理由に関白を辞職しました。後任には伊周を推薦しましたが、一条天皇がこれを了承しないまま、長徳元(995)年4月10日、道隆は死去します。
 次の関白の座を射止めたのは弟の道兼でした。4月27日、病床の道兼に関白の詔が下りましたが、道兼はその7日後の5月8日、赤斑瘡のため死去しました。世間では「七日関白」と呼ばれました。
 さて、一条天皇としては、次の関白を伊周にするか道長にするかを選ばなければなりません。
 内大臣伊周は権大納言道長より官位が高いので、普通に考えれば伊周を選ぶことになります。しかも、天皇の愛する姐さん女房・中宮定子が、兄の伊周を選んでほしいと天皇に懇願してきました。
 ところが夜になると、母に当たる皇太后・詮子が一条天皇の寝室に押しかけ、涙ながらに道長を選ぶよう説得してきました。天皇としては妻から「伊周を選べ」と言われ、母から「道長を選べ」と言われたわけで、苦しかったでしょう。
 結局母には逆らえず道長を選ぶことになりますが、まだ大臣経験のない道長を関白にすることはできません。
 やむなく道長には、内覧の宣旨が下りました。「内覧」とは、天皇が裁可する文書を先に見る役職です。ほぼ摂政や関白と同じ権限を持つことになります。
 ここからいよいよ、32年間に及ぶ藤原道長の治世が始まります。
 道長の治世はいろんなエピソードがあって話題に事欠かないのですが、いかんせん政策がないんですよね。道長がいかに様々な政争に打ち勝ってきたか、ということは分かるのですが、道長が政治の頂点に立って何を成し遂げたかったのか、どんな政策を実現したかったかが、いまいち伝わって来ないのです。

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