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30年日本史00642【鎌倉前期】北条義時の評価

 後堀河天皇の治世が始まりました。朝廷内で長らく鎌倉幕府とのパイプ役を務め、将軍頼経の父でもある九条道家は、倒幕計画には一切関与していなかったものの、後鳥羽上皇を止められなかった責任を負って摂政を辞任しました。といっても辞任は一時的なもので、その後しばらくすると復権し絶大な権力を握ることとなります。
 後堀河天皇の即位に伴い、関白に就任したのは近衛家実(このえいえざね:1179~1243)でした。九条家と近衛家はライバル関係にあり、この先も摂関の地位を争うこととなります。
 承久の乱の戦後処理を一通り終えたところで、元仁元(1224)年6月13日、北条義時は燃え尽きるように世を去りました。
 北条義時は日本史上唯一、朝廷を敵に回して勝利した人物です。勝利しただけでなく、3人の上皇を流罪にするという前代未聞の強権を発動しています。
 この義時を同時代の人たちはどう見たのかというと、意外にも英雄扱いしているようなのです。「古今著聞集」では「北条義時が武内宿禰の生まれ変わりである」との伝説が描かれ、「だからこそ行状の悪い上皇たちを罰することが許されるのだ」という方便になっているように思われます。
 ただし、明治時代になると義時の評価は逆転します。天皇を絶対のものと考える明治国家の中では、義時は「不忠の臣」とみなされ、陰険な策謀家として描かれるようになるのです。
 昭和初期に皇国史観というイデオロギーを確立させた歴史学者・平泉澄(ひらいずみきよし:1895~1984)が子供向けに書き下ろした「物語日本史」を見ますと、まずは承久の乱の章タイトルに驚かされます。「承久の御計画」となっているのです。
 確かに「乱」とは下の者が上の者に対して起こす反乱をイメージする言葉ですから、平泉には受け入れられないネーミングなのでしょう。
 さらに平泉は、北条家についてこう総括しています。
「かような性格、陰謀と残酷とを特徴とする性格は、時政、義時、泰時、時頼よりして、最後の高時に至るまで、一貫していました。彼らは幕府において執権の地位に止まり、その上に将軍をいただいていましたが、その将軍を自由に迎えたり、追放したりして、政治の実権は、おのれ一人の手に、しっかりと握っていました」
 何とも悪意に満ちた記述で、歴史学者というよりも講談師の講釈のように思えますが、このような歴史観が席巻した時代があったわけです。
 義時は、確かに和田義盛ら敵対者を粛清した残虐な為政者でしたが、鎌倉幕府という東国政権を、全国を統治する政権へと押し上げた立役者でもありました。この義時の遺産を受け継いだ北条泰時と、その孫の時頼らが執権政治を完成形へと成長させていきます。

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