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30年日本史00779【鎌倉末期】山崎の戦いと法勝寺の戦い

 京での合戦で赤松勢は敗れて男山に逃れたものの、六波羅軍はそれを追撃することなく放置していたため、赤松勢は再び人数を集めて勢力を盛り返し、山崎(京都府大山崎町)に陣を構えて京へ再び攻め上るチャンスを窺っていました。
 六波羅探題北方・普恩寺仲時は、
「小勢の赤松らを相手にあんなにも苦戦するとは末代までの恥辱である。早く敵を追撃しなければ」
と言って、5千騎の兵を山崎へと送り出しました。元弘3/正慶2(1333)年3月15日、六波羅軍は山崎に立て籠もる赤松軍に突進します。
 六波羅軍の出撃を知った赤松円心は、敵と真っ向から向き合うふりをして、一部の兵を向日明神(むこうみょうじん:京都府向日市)の裏手にある松林に潜ませておきました。そして敵が深入りしてくるのを待って、この伏兵に敵の背後を狙わせました。
 挟み撃ちにされた六波羅軍は大混乱に陥り、慌てて逃げていきました。都の人たちは、
「何と情けない。陶山・河野を出しておけばこんな惨めな負け方はしなかっただろうに」
と噂したといいます。
 さて、こうした六波羅軍の不甲斐なさを知った延暦寺の僧兵たちは、
「今こそ六波羅を落とすべきときだ」
と勢い立ちました。3月27日、僧兵らは六波羅を攻撃するため法勝寺(京都市左京区)に集合しました。集まってみると、その人数は10万人を超えていたため、僧兵らは
「これなら数の差で勝てる」
と敵をみくびってしまいます。
 ところが、六波羅方は僧兵らの襲撃を予期して待ち伏せしていました。僧兵たちは比叡山での狭隘な山道での合戦では有利に戦えますが、平地での戦いでは弓矢に秀でた武士たちと互角に渡り合うことができません。幕府方から次々と矢を射かけられ、大混乱に陥りました。
 10万人の僧兵たちは慌てて比叡山に引き返そうと逃げ始めますが、逃げずに踏みとどまった僧が二人いました。豪鑒(ごうかん:?~1333)と豪仙(ごうせん:?~1333)という名高い荒法師です。二人は
「命を捨てても雪辱を晴らそう」
と言い合い、長刀を振り回して六波羅軍の兵たちを斬りまくり、1時間もの間、味方を逃がすための時間稼ぎをしました。
 10ヶ所以上の傷を負ったところで、二人は切腹して果てました。幕府方の武士たちはこの二人の戦いぶりに賞賛を惜しまなかったといいます。

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