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30年日本史00973【南北朝初期】住吉・天王寺の戦い 分散配置

既にだいぶ先まで下書きを済ませていて、来年末まであるのですが、それでも不安です。1000日先まで書いてあればやっと安心、というくらい心配性なのです。

 藤井寺の戦いでの敗北に危機感を持った北朝方は、今度は細川顕氏・山名時氏に6千騎を与えて、住吉・天王寺に派遣することとなりました。両者が派遣されたのは正平2/貞和3(1347)年11月25日のことです。
 細川顕氏は兵たちを集めて、
「前回と同様に逃げ出したのでは、万人に嘲られる。各位とも覚悟を決めて前回の恥辱を晴らせ」
と訓示しました。
 山名時氏は住吉に、細川顕氏は天王寺に、それぞれ陣を構えました。これを聞いた正行は、
「敵が住吉と天王寺の両方に城を構えてしまったら、(住吉・天王寺には神社仏閣があるため)神仏に向かって弓を引くことになってしまう。さっさと住吉の敵を追い払って、天王寺の敵が戦わずして退くように仕向けよう」
と述べ、11月26日の夜明けに500騎を率いて、まず住吉の山名軍に攻撃しようと押し寄せました。
 これを見た山名時氏は、
「敵は一方から押し寄せてくるのではなく、いろんな方向から攻めてくるだろう。手を分けて戦うぞ」
と言って、赤松範資らを住吉の南側に、土岐頼明(ときよりあき:?~1348)らを阿倍野(大阪市阿倍野区)に、自らの山名直轄軍を瓜生野(大阪市住吉区)に、それぞれ構えさせました。天王寺の細川軍も含めると、全部で4箇所に分散させたわけです。
 正行は、敵の馬の砂煙を見て、敵が4箇所に分かれていると見破り、
「それならば1箇所に集中して攻撃しよう」
と2千騎の軍勢を瓜生野に集中させました。
 楠木軍と山名軍は1時間近く斬り合って、互いに勝ち鬨を上げて後方へ退きましたが、見ると両軍とも半数ほどが討ち死にしていました。山名軍は、大将たる時氏が7ヶ所の切り傷を負っており、まさに満身創痍です。
 退却した山名軍が少し休んでいると、楠木軍から和田源秀(わだげんしゅう:?~1348)と名乗る若武者と、阿間了願(あまりょうがん)と名乗る頑強そうな大男とが向かって来ました。
 たった2騎で突っ込んできたのを山名軍はさほど脅威にも感じなかったのか、ただただ様子を見ていたのですが、2騎は山名軍の中央に突進し、いきなり山名方の36騎が突き落とされてしまいます。この2騎は楠木軍の中でも相当な手練れのようです。

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