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30年日本史00775【鎌倉末期】船上山の戦い

 名和湊の辺り一帯を治める名和長年とは、武士だったとも、海運業を営む商人だったともいわれており、その実像は定かではありません。しかし、この名和長年はたまたま隠岐諸島の向かいにある名和湊を治めていたことで、後醍醐政権の一角を担う重要人物として歴史の表舞台に浮上してくるのです。
 後醍醐天皇が名和長年に使いを出して助力を求めたところ、名和は一族を挙げて天皇を助けることを決めました。名和は家臣たちに
「隠岐からの追っ手が迫っていることであろう。さっそく合戦の準備を整えよ」
と指示して、元弘3/正慶2(1333)年閏2月28日、船上山(鳥取県琴浦町)の上に急ごしらえの宮を築き、そこに天皇を誘導しました。天皇は名和長年に対し、
「忘れめや よるべも浪の あら磯を み船のうへに とめし心は」
(忘れはしないぞ。波の荒い海を越えてやって来た私を、船上山に連れてきてくれたことを)
と御製の歌を贈りました。
 閏2月29日、その船上山に攻めかかってきたのが、隠岐清高とその配下の佐々木昌綱(ささきまさつな:?~1333)です。船上山に籠もる名和長年は、木に4、500もの旗を括りつけることで自軍を大軍であるかのように見せかけ、幕府軍を牽制しました。
 幕府軍は当初は有利に攻撃を仕掛けていましたが、指揮官の一人である佐々木昌綱の右目に矢が当たって戦死したのをきっかけに、徐々に名和軍が有利となりました。隠岐清高率いる本軍は船上山に攻めのぼりますが、暴風雨が吹いて山上にいる名和軍が圧倒的に有利となり、隠岐軍の兵は断崖絶壁から次々落ちていき、勝敗は決しました。
 隠岐清高は命からがら隠岐へと逃げ帰りますが、隠岐の住民たちは天皇の味方をして国中の津々浦々を塞いでいました。帰れなくなった隠岐清高はやむなく越前敦賀(福井県敦賀市)へと逃れ、後に六波羅探題滅亡の際に近江国番場(滋賀県米原市)にて自害することとなります。
 さて、船上山の戦いで後醍醐天皇方が勝利したことを知り、腹を括った塩冶高貞は、遂に天皇方につくことに決めました。塩冶高貞は幽閉していた富士名雅清を解放し、共に後醍醐天皇の元へと馳せ参じました。
 その後、塩冶高貞もまた後醍醐天皇の側近の一人として倒幕に貢献することとなります。
 これ以降、後醍醐天皇はしばらく船上山に滞在し、ここで全軍の指揮を執って六波羅と対決していきます。

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