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30年日本史00005【旧石器】明石人骨の発見

 昭和6(1931)年4月18日。直良信夫はいつものように、スコップを片手に明石市西八木海岸を歩いていました。前夜の暴風により、新たに露出した地層がないものかと探し歩いていたのです。
 信夫の予想通り、海岸には新しい崖崩れの跡がありました。崖崩れによって露出した地層は、青粘土層という百万年前から数十万年前ころに出来た層でした。そこを注意深く観察していると、ふと白いものが土から露出しているのを見つけました。スコップで掘り出してみると、それはまさしく人の腰骨でした。
「私は思わず声を立てた。体の震えがしばし止まらなかった。長い歳月、夢にまで描いたその人骨を手にしたとき、久しい間の苦労が一瞬にして吹っ飛んだような気がした」(直良信夫「日本の誕生」より)
 信夫はこの腰骨を持ち帰り、さっそく東京帝国大学人類学教室の松村瞭(まつむらあきら:1880~1936)博士に鑑定を依頼しました。松村博士からは「30~40万年前のもの」との回答があり、信夫は
「日本にも旧石器時代が存在した」
との論文を発表します。
 ところが、学界の反応は冷ややかでした。
 特に國學院大学教授の鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう:1870~1953)は、信夫の主張を誤りと断定し、痛烈に批判しました。鳥居は松村と険悪であったため、どうしても松村の業績を否定したかったとの説もあります。
 学界から攻撃された信夫は、学歴のないことをコンプレックスに感じ始めていました。
「やはり学問をするためには、東京にいなければ」
と考えた信夫は、音と相談した結果、昭和7(1932)年に東京に越すこととなりました。
 直良夫妻は中野区江古田(えごた)に家を構え、音は豊島区大塚の私立跡見高等女学校に勤めることとなりました。信夫も早稲田大学の徳永重康(とくながしげやす:1874~1940)博士の助手となり、晴れて考古学者の仲間入りをしました。
 その後信夫は、「江古田植物化石層」を発見するなど順調な研究生活を送っていたのですが、太平洋戦争によって研究が思うように進められなくなりました。戦時中、考古学のように軍事に直接役立たない学問は、国の支援が受けられなくなっていたのです。
 昭和20(1945)年5月25日。江古田の家を東京大空襲が襲います。信夫の家は炎上し、10日以上に渡って火がくすぶり続けました。火がおさまってから信夫は家を片付け始めますが、あの明石西八木海岸で掘り出した腰骨は遂に見つかりませんでした。

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