30年日本史00965【南北朝初期】千町原の戦い
南朝方の金谷経氏ら300騎は
「どうせ生きては帰らぬ戦だ」
と言って大軍に向かっていきました。一方、北朝方の細川頼春ら7千騎は千町原(せんじょうはら:愛媛県西条市)へ討って出て敵の陣を見渡します。
敵が僅か300騎なのを見た細川頼春は、
「敵がこれほど小勢とは思わなかった。あれは屈強の者どもを選りすぐって、大軍の中を一気に駆け破って私に組み合おうとするつもりだろう」
と敵の作戦を見破りました。そして注意深くも
「一気に討とうとすると手に負えないぞ。むしろあまり近づかず、攻めかかっては退いて敵を疲れさせよ。疲れたところを包囲して討ち取るのだ」
と指示しました。
本来、こちらが7千騎で敵が300騎と知ったら、油断して「軽く討ち取ってやる」と考えるのが通常でしょう。にもかかわらず、細川頼春は慎重にも確実に敵を倒せる方法をとるよう指示しました。これで金谷らが勝つ可能性は消えたといってよいでしょう。
さらに細川頼春は、味方の護衛の兵たちを遠ざけて陣を構えました。金谷らは、まさかこんな小勢の中に大将がいるとは思わず、細川らには目もくれずに奥の方へと駆け抜けてしまいます。
金谷らが斬りかかった陣には、細川軍700騎程度がいましたが、細川軍は戦わずさっと退いてしまいます。金谷らはさらに次の陣へと斬りかかりますが、これまたさっと退いてしまいます。金谷軍は徐々に疲れてきたところを次々と斬られ、300騎が17騎にまで減ってしまいました。その17騎は
「名もなき兵にやられるよりは、打ち破って逃げよう」
と言って、敵陣を突っ切って逃げていきました。
こうして勇猛果敢な金谷軍は千町原の戦いに敗れ、大舘氏明の立て籠もる世田山城を救うことができませんでした。
興国3/康永元(1342)年8月24日、細川頼春は満を持して世田山城に攻め寄せました。世田山城はしばらくは粘り強い戦いを見せたものの、9月3日、大舘氏明は遂に力尽きて兵とともに自害しました。
こうして四国の戦いは北朝方の勝利に終わりました。脇屋義助の死の影響はそれだけ大きかったということでしょう。