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30年日本史00699【鎌倉中期】竹崎季長と蒙古襲来絵詞

 元寇について唯一残っている絵画史料が「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」です。肥後の御家人・竹崎季長が自らの活躍を絵師に書かせたもので、国宝に指定されています。
 竹崎季長は、寛元4(1246)年に肥後国竹崎郷(熊本県宇城市)に産まれました。庶子であり、親から受け継ぐ所領を持たなかった季長は、戦で活躍して大規模な所領を得ようと思い立ちます。
 文永の役では、赤坂の戦いで敗走した元軍が麁原山に退却したのを見た季長は、僅か5騎で敵勢に突撃しました。手傷を負っただけで、敵の首を挙げることはできませんでしたが、竹崎勢が突撃したことで他の御家人たちも勢いづき、結果的に麁原山の戦いは日本側の勝利に終わりました。
 この戦いで季長は何らの恩賞も与えられませんでした。しかし季長は諦めません。建治元(1275)年6月、虎の子の馬を売りに出すことで旅費を調達し、鎌倉に赴いて幕府に直訴します。
「先駆の功(さきがけのこう)が認められるはずだ」
というのです。
 この主張はなかなか認められませんでしたが、8月には恩賞奉行である安達泰盛と面会することができ、季長は自身の功績を必死に説明しました。
 安達泰盛は執権時宗の妻の兄に当たり、時宗政権の重鎮でした。泰盛は季長の主張に耳を傾け、恩賞を与えることを約束した上、帰りの馬まで用意してくれました。後に季長は恩賞地として肥後国海東郷(熊本県宇城市)を与えられ、その地の地頭に任命されました。
 季長が地頭として発出した置文を見ると、例えば
「領民が無事に年を越せるよう、一人当たり二斗の米を年末に与えよ」
といった記述がみられ、領民思いの地頭であったことが窺えます。
 さらに弘安の役では、季長は志賀島の戦いで敵の軍船に斬り込んで敵兵の首級を挙げました。幸いなことにこちらの恩賞はすばやく認められました。
 永仁元(1293)年、季長は自らの功績を後世に残そうと、絵師に「蒙古襲来絵詞」を描かせ甲佐大明神(熊本県甲佐町)に奉納しました。元寇の戦に第一線で参加した季長が書かせたものですから、多少の誇張はあるにせよ、元軍の戦いぶりを正確に捉えた第一級の史料です。季長のように恩賞と名誉のために命を懸けた御家人がいたおかげで、元寇当時の様子を後世に残すことができたのですね。

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