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30年日本史00913【南北朝最初期】男山の戦い 八幡宮炎上

 義貞からの相談の手紙を見た比叡山の僧たちは、義貞の作戦をよく理解して
「我々は南朝方を裏切るつもりはない」
と確約してくれました。
 比叡山の協力を確認した義貞は、自身が3千騎で越前に留まり、弟の脇屋義助を2万騎で男山に向かわせることに決しました。そもそも、
「男山に向かう兵があまり少ないと、叡山の僧たちに侮られるおそれがある」
という理由で比叡山に相談したのに、兵力のほとんどを男山に向けるとは、何だか変てこな気がしますね。
 ともあれ延元2/建武4(1337)年7月19日、義助は越前国府を出発しました。
 これを知った尊氏は、
「男山をまだ落とせずにいるうちに、脇屋義助が北国から攻め寄せてくるとは一大事だ。事が大きくならないうちに、急いで京へ戻って義助の攻撃に備えよ」
と指示して、高師直を京に戻らせることを決めました。
 高師直は
「将軍のご命令とはいえ、男山を陥落させずに引き返してしまうとなると、南の敵を利することになってしまう。どうしたものか」
と考えあぐねて、強硬策に打って出ることにしました。なんと夜風に紛れて忍びの者を男山に入らせて、城に火をかけたのです。最後の最後に、男山の敵軍に一撃を与えようというわけです。
 城といってもこの城は「男山八幡宮」とも呼ばれる神殿であり、源氏が崇める八幡神を祀る社です。源氏の流れを汲む足利家の執事である師直が八幡宮に火をかけるとは、まさに神をも恐れぬ所業です。ちなみに男山八幡宮は現在は「石清水八幡宮」と呼ばれることのほうが多いかもしれません。徒然草にも登場する有名な神宮ですね。
 男山に籠もっていた南朝方の新田義興・北畠顕信らの軍は大混乱に陥りました。これに乗じて師直軍10万騎は次々と攻め上っていきます。
 ちなみに、この男山の戦いについて「太平記」は延元2/建武4(1337)年7月の出来事と記しているのですが、正しくは延元3/建武5(1338)年3月の出来事ではないかと考えられています。というのも、北畠顕家の動向をめぐる記録と齟齬があるためです。後ほど詳しく説明することになるでしょう。

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