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30年日本史00549【鎌倉初期】奥州合戦 泰衡の最期

 頼朝軍の進撃は止まりません。いよいよ奥州藤原氏の本拠地・平泉に近づいています。
 頼朝は平泉攻略に向けて
「僅か千や二千の兵で馳せ向かうべきではない。二万騎の兵でゆっくり行こうではないか。既に敗色濃厚な敵なのだから」
と述べ、余裕を見せました。
 文治5(1189)年8月21日。頼朝軍が津久毛橋(宮城県栗原市)に至ると、随行していた梶原景高が
「陸奥(みちのく)の 勢は御方に 津久毛橋(つくげばし) 渡して懸けん 泰衡が首」
と詠み、頼朝を喜ばせました。「既に陸奥勢の多くは鎌倉殿についたぞ」ということを「津久毛橋」と掛けたのです。
 梶原景高というと、無断任官した際に激怒した頼朝から「顔色も悪く、元々バカだと思っていた」などと罵詈雑言を浴びせられていた人物ですが、既に許されて頼朝の傍に仕えていたようですね。なかなか上司の御機嫌取りが上手いようです。
 8月22日。頼朝軍は遂に平泉に達しましたが、既に泰衡の館には火が放たれ、泰衡は北方に逃亡した後でした。結局泰衡は全ての戦を兄弟や家臣たちに任せ、頼朝軍と一度も直接対決しないまま逃げたのでした。
 8月26日。頼朝のもとに、泰衡からの書状が投げ込まれました。こんな文面です。
「義経は、父・秀衡が保護したものであり、自分は全くあずかり知らないことです。父が亡くなった後、あなたの命を受けて義経を討ち取りました。これは勲功と言うべきではないでしょうか。しかるに今、罪もなくたちまち征伐されるのはなぜでしょうか。そのために累代の在所を去って山林をさまよい、大変難儀しています。自分を許し、御家人に加えていただきたい。さもなくば死罪を免じて遠流にしていただきたい」
 まさに完全降伏といった内容ですが、頼朝はこの書状を完全に無視しました。頼朝がいかにも嫌いそうな文面で、とても赦免をもらえそうにはないですね。
 泰衡は蝦夷地(北海道)まで逃亡するべく、とりあえずは比内郡贄柵(にえのさく:秋田県大館市)の河田次郎(かわだのじろう:?~1189)のもとに逃れていました。河田次郎は奥州藤原氏の年来の郎党です。
 ところが9月3日、河田次郎は裏切って泰衡を討ち、9月6日に河田次郎は泰衡の首を持参して頼朝のもとに投降してきました。
 この河田次郎が頼朝からどのような扱いを受けるか、もうお分かりですね。

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