見出し画像

30年日本史00475【平安末期】野木宮合戦

 勝利を収めた義仲はそのまま越後へと北上し、越後国府(新潟県上越市)を制圧しました。
 国府というのはつまり地方政府ですから、ここを取れば越後を征服したようなものです。
 さらに義仲は、北陸に逃れていた以仁王の長男・北陸宮(ほくりくのみや:1165~1230)と合流しました。
 北陸宮という人物は、本名すらも伝わっておらず謎の多い人物です。
 以仁王が決起したときまだ15歳だった北陸宮は、戦乱を避けるため北陸に逃れていたわけですが、その北陸宮と合流したということは、いわば義仲は平家を打倒する大義名分を得たといえるわけです。なぜなら、皇族から「平家を打倒せよ」との命令をもらったと言って行動できるからです。
 前述した源行家が、頼朝と決別して義仲に合流しようとやって来たのも、この頃のことと考えられます。
 義仲にとっては、行家を客人として迎えるのは、頼朝との不和を誘発するおそれのあることだったはずです。義仲は単純な性格の男だったのか、はたまた頼朝と対峙できるだけの十分な自信があったのか分かりませんが、ともかく、義仲は行家と行動をともにすることとなります。
 その後、義仲・頼朝関係をさらに緊張させる出来事が起こりました。
 寿永2(1183)年2月20日。常陸国志田(茨城県稲敷市)を本拠とする志田義広が、足利俊綱・忠綱父子を伴い、反頼朝の兵を挙げたのです。
 志田義広は、源為義の三男です。ややこしくなって来たので、ここで為義の子と孫たちを整理しておきましょう。
・長男:源義朝 その三男が頼朝
・次男:源義賢 その次男が義仲
・三男:志田義広
 つまり平家を打倒しようとしているのに、源氏一族の内部で争いが生じているわけです。
 頼朝は小山(栃木県小山市)を拠点とする小山朝政(おやまともまさ:1155~1238)に志田義広鎮圧を命じます。小山朝政は、志田義広に帰順するふりをして近づき、2月23日、野木(栃木県野木町)において突如攻撃を加えました。これを「野木宮合戦」と称します。
 この野木宮合戦に敗北した義広は、義仲のもとへと落ち延びました。頼朝と対決した相手をまたもや匿ったわけですから、義仲と頼朝という平家打倒のキーマン2人の対立がここから幕を開けることとなります。

この記事が参加している募集

#日本史がすき

7,239件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?