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30年日本史00740【鎌倉末期】滅亡の原因 惣領と庶子の対立

 鎌倉幕府滅亡の原因について述べているところです。続いて「惣領と庶子の対立」と「御家人の不満」について見ていきましょう。
 ②惣領と庶子の対立
 これまで述べてきたように、鎌倉幕府は戦乱によって敗者から所領を没収し、それを御家人たちに再分配することで御家人の欲求に応えてきました。しかし鎌倉時代後期には所領再配分の機会となる戦乱の発生自体がかなり減ってきた上、御家人たちは複数の子に所領を分割相続させていたため、この時代には御家人一人当たりの所領がひどく小さくなっていました。
 ここに至って、多くの御家人は子への分割相続を辞め、長子(惣領といいます)にのみ所領を単独相続させてそれ以外の子(庶子といいます)を放置するようになりました。そうなると庶子たちは食べていくことができません。庶子たちは、幕府の裁定に逆らって実力で荘園を手にしようと活動し始めます。中には悪党に転落する者も現れました。
 つまり、倒幕運動に手を貸すようになってしまったのです。
 ③御家人の不満
 もう一つ、幕府滅亡の原因として、有力御家人たちの離反も挙げられます。北条氏が主要な守護や荘園領主の地位を独占したため、多くの御家人たちの不満を招いていたのです。
 データを見ると、北条一門が守護を務めていたのは
・正治2(1200)年頃: 42ヶ国中2ヶ国
・建長2(1250)年頃: 46ヶ国中17ヶ国
・弘安8(1285)年頃: 56ヶ国中33ヶ国
・元弘3/正慶2(1333)年頃: 56ヶ国中38ヶ国
で、特に鎌倉中期以降は一挙に増加しているのが分かります。
 こうした状況は御家人らの不満を増大させたはずです。後醍醐天皇が挙兵すると雪崩を打つように次々と御家人が裏切ったのはこのためでしょう。
 幕府を裏切った御家人の代表格は
・足利尊氏(あしかがたかうじ:1305~1358)
・新田義貞(にったよしさだ:1301~1338)
でしょう。
 当初は幕府軍と倒幕軍との戦力は拮抗していましたが、この二人が離反したことで一気に幕府は滅亡へと向かっていくのです。

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