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30年日本史00135【人代後期】衣通郎姫の悲恋伝説

 木梨軽皇子と穴穂皇子は互いに武装して戦闘準備に入ります。しかし、木梨軽皇子側につく者は多くはありませんでした。妹とのスキャンダルによって、既に民心は離反していたのです。
 木梨軽皇子は形勢不利と見て、大臣の大前宿禰の家に逃げ込みます。木梨軽皇子が銅の矢尻で武装したのに対し、穴穂皇子は鉄の矢尻で武装し、大前宿禰の家を包囲します。兵の人数だけでなく、武器についても穴穂皇子が有利なようですね。
 大前宿禰は家から出てきて、穴穂皇子に
「どうか木梨軽太子を殺さないでください。私がどうにか説得しますから」
と言って、家の中に戻りました。しかし、大前宿禰が部屋に入ると、木梨軽皇子は既に衣通郎姫とともに自害していました。
 以上が日本書紀に伝わる伝説ですが、一方、古事記では細かいストーリーが異なっています。木梨軽皇子は伊予に流罪となり、その流刑地において衣通郎姫とともに心中したといい、その墓は東宮山古墳(愛媛県四国中央市)にあります。
 古事記では、木梨軽皇子と衣通郎姫の悲恋伝説にかなりのページが割かれており、両者が詠んだ歌が多く掲載されています。
 二人の恋が露見してしまったとき、木梨軽皇子はこう詠みます。
「天(あま)だむ 軽の乙女 いた泣かば 人知りぬべし 波佐の山の鳩の 下泣きに泣く」
(姫よ、そのように泣いては人に知られてしまうだろう、波佐の山の鳩のようにもっと静かに忍んで泣きなさい)
 そして伊予へ流罪となった際、木梨軽皇子は「必ず戻ってくるから」と言い残し、こう詠みました。
「天飛(あまと)ぶ 鳥も使ひぞ 鶴が音(たづがね)の 聞こえむ時は 我が名問はさね」
(寂しくなったら空を飛ぶ鳥に尋ねなさい。きっとその鳥が私に言葉を運んでくれる)
 一方、衣通郎姫は旅立つ兄に歌を返します。
「夏草の あひねの浜の 蠣貝(かきがひ)に 足踏ますな 明かして通れ」
(浜で貝を踏んで足を怪我しないよう、夜が明けてからお通りください)
 そして、兄を待ち続けていた衣通郎姫は、やがて次のように歌を詠みます。
「君が行き 気長(けなが)くなりぬ やまたづの 迎へは行かむ 待つには待たじ」
(あなたが行ってしまってから時間が経ちました。もう待ってはいられません。帰ってこられないならば私が迎えに参ります)
 衣通郎姫は長い距離を歩き、倒れてはまた立ち上がるようにして、やっとの思いで兄の元へ辿り着きます。二人は再会し抱擁しますが、まもなく心中を遂げます。
 古事記がこんなにも政治的敗者たちに深い同情を寄せ、恋物語として昇華させているのは意外の感がありますね。

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