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30年日本史00421【平安後期】平治の乱 信西の最期

 清盛が急いで都に戻ったのは、盟友・信西を救出するためだったでしょう。しかし、信西の命運はもはや尽きていました。
 平治元(1159)年12月13日。田原に逃れていた信西は、追っ手から逃れるため、側近たちに穴を掘らせて、その中に隠れました。このとき、同道していた信西の側近・藤原師光(ふじわらのもろみつ:?~1177)は、信西に
「出家をするので法名をいただきたい」
と願い出ました。もはや今生の別れを覚悟していたのでしょう。
 信西は、師光に自らの字を一字授けて、「西光(さいこう)」の名を与えました。
 そしてこの日のうちに、信西は義朝が放った追っ手に発見されてしまいます。信西は穴の中で自害したとも、あるいは穴から引き摺り出されて首を斬られたとも伝わります。天賦の才で下級貴族からのし上がった稀代の政治家・信西はこうして54歳の生涯を終えました。
 にっくき信西を葬った信頼は、12月14日、除目を行い自ら大臣・大将に任じました。義朝は薩摩守に任官されました。
 任官に喜んでいる一同のもとに、出かけていた悪源太義平が帰ってきました。信頼が
「任官は思うがままだぞ」
と声をかけると、義平は
「戦闘の趨勢すら決まらない中で、任官など無駄でしょう。まずは清盛を討つべきです」
と正論を主張しました。しかし信頼は
「清盛が都に戻ったところを討てばよい」
とこれを却下し、戦闘に興味を持ちませんでした。全くセンスのない大将です。
 信頼らがうかうかしている間に、12月17日、清盛一行は京の六波羅にある自邸に戻ってきました。さっそく兵を起こして信頼らと一戦交えるのかと思いきや、清盛らは意外な行動に出ます。なんと信頼に対して平氏一門の名簿を提出したのです。名簿(みょうぶ)とは、現代における名簿(めいぼ)と同じ意味ですが、一門の名簿を提出する行為は、
「これだけの人間があなたにお仕えします」
という意思表示でした。新たに大将に任じられた信頼に対し、平氏一門はこれを支持するという意思を表明したのです。
 安直な信頼はこれに安心し、もはや清盛と敵対する必要はなくなったと考えました。しかし、これこそ清盛の仕掛けた罠だったのです。

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