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30年日本史00525【鎌倉初期】腰越状に見える兄弟のすれ違い

 腰越状は形式上は大江広元に宛てられたものですが、広元が頼朝本人に見せることを期待して書かれたものでしょう。そして、この文章こそが頼朝・義経のすれ違いの原因を見事に示しているもののように思われます。
 まず、義経はひたすら謝っているように見えますが、平家を滅ぼしたことを「高く賞賛されるべきもの」と自負した上で、「何の罪もないのに御勘気を被り」と自分の落ち度を一切認めていません。さらに「讒言の真偽を確かめることなく、鎌倉へ入れていただけない」といった部分は、兄を非難しているようにも見えます。
 頼朝が怒っている理由は、(草薙の剣の一件もありますが)言うまでもなく無断で任官したことです。頼朝が作ろうとしている武士団は強い主従関係で結ばれたもので、ひとたび頼朝の許可のない後白河法皇からの任官を認めてしまうと、頼朝と朝廷とが敵対した際には御家人は朝廷方についてしまうおそれがあり、武士団は瓦解するおそれがあるのです。事もあろうに、頼朝の指示を徹底するべき立場にある義経が無断で任官したことで、多くの御家人がそれに続いてしまいました。その頼朝の怒りに何らの正当性がないと義経は主張しており、兄の怒りの原因を全く理解していないようです。
 さらに悪いのは、「血を分けた肉親の縁は空しくなってしまいます」と身内であることを盛んにアピールしている点です。頼朝は養和元(1181)年の鶴岡若宮宝殿上棟式で義経に馬を引くよう命じたように、義経を弟として接遇するのではなく他の御家人と同等に扱っています。それが御家人たちの不満を生まないために必要なことだからです。にもかかわらず、義経はそれをも理解せず、弟として扱ってほしいと述べています。
 さらには「孤児となって母の懐中に抱かれ……」などと、本件と無関係な自分語りをして同情を引こうとしているわけですから、これは頼朝を余計に怒らせるものだったと思われます。
 この腰越状は今も満福寺に保存されていますが、義経が書いた原本かどうかは疑問視されています。
 さて、腰越状はどういうわけか、江戸時代に読み書きの練習用に用いられることが多かったようです。悲劇のヒーローである義経の人気は、江戸時代には特に高かったのでしょう。そのため、明治以降に多くの家で、蔵から古い腰越状が発見され、
「もしや当家は源氏の家系だったのでは」
と考えた人が鑑定人に持ち込み
「江戸時代の子供が書いたものですね」
と言われがっかりする……という事件が頻繁に起こったようです。

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