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30年日本史00662【鎌倉中期】道元と曹洞宗

 寛元2(1244)年、曹洞宗の開祖である道元(どうげん:1200~1253)が、越前国(福井県)に永平寺を建立しました。ここで道元の生涯について見ていきましょう。
 道元は正治2(1200)年に京の公家の家に産まれました。父は村上源氏の流れをくむ土御門通親であるというのが定説ですが、異説もあります。
 道元は13歳で比叡山延暦寺に修行に入り、禅に興味を持ち始めます。当時、臨済宗が日本に輸入されて間もない頃で、道元は栄西の指導を受けたいと望んでいましたが、栄西は道元が出家する2年後に死去していました。
 比叡山を下りた道元は、建保5(1217)年に栄西が建立した建仁寺に入りましたが、そこで満足を得られず、南宋に渡って自ら学ぶほかないと考え、南宋に留学に渡りました。
 南宋で最も流行していたのが禅宗でした。禅宗の中には、臨済宗のように「公案」という謎かけをひたすら考えながら座禅を組む宗派もあれば、曹洞宗のように「只管打坐(しかんたざ)」といって一切の思考を捨ててひたすら座禅に取り組む宗派もあるのですが、道元は後者の方に心を惹かれ、曹洞宗の寺院で4年間修行の日々を過ごしました。
 帰国後、道元は当初は京で布教活動に取り組みましたが、比叡山延暦寺から激しい迫害に遭ったため、弟子のつてを頼って越前国に向かいます。そこで寛元2(1244)年に開いたのが永平寺というわけです。
 永平寺の修行は日本一厳しいことで知られています。朝3時半に起床し、3時間もの座禅や勤行を済ませてから朝食。朝食後も朝・昼・晩と3度の座禅があって21時に就寝です。食事のほか、布団の敷き方や掃除の仕方一つ一つに作法があり、それを厳格に守りながら生活しなければならず、その厳しさは他宗派と比較にならないといいます。
 永平寺では一般人の三泊四日の修行体験を受け入れていますが、
「特に厳格である為、興味本位で上山すると挫折します」
との警告が書かれており、生半可な気持ちでは太刀打ちできない修行であることが分かります。
 さて、道元は宝治元(1247)年頃に執権北条時頼の招きで鎌倉に赴きます。臨済宗を深く信仰する時頼は、道元の教義にも強く関心を示しましたが、道元は幕府の庇護を受けることを拒否するように、僅か半年間で永平寺に戻ってしまいます。原因はよく分かっていませんが、鎌倉では執権北条氏が将軍頼経や有力御家人三浦と対立していた頃であり、政争に巻き込まれることを懸念したのかもしれません。
 道元は建長5(1253)年に死去しましたが、その後も曹洞宗は多くの信徒を獲得し続け、全国に多くの寺院を擁する主要宗派の一つとなりました。

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