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30年日本史00274【平安前期】59代宇多天皇即位

 さて、光孝天皇の時代となりました。光孝天皇といえば、
「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ」
が百人一首に収録されていることで有名です。「天皇自身が野に出て若菜を摘むことなどあり得るのか」と疑問の声もありますが、光孝天皇は即位前(時康親王と呼ばれていた頃)にひどく貧しい生活を送っていたそうなので、事実かもしれません。
 「文徳-清和-陽成」と文徳系が皇位を継いでいく中、即位の可能性の低かった時康親王の部屋には、自炊のため煤(すす)がこびりついていたと言われています。時康親王の即位はそれほどまでに大番狂わせだったのですね。それは裏を返せば、そんな大番狂わせを起こすことができるほどに基経の権力は磐石だったということでしょう。
 光孝天皇は、即位に当たって子孫全員を臣籍降下させました。「自らの系統が今後皇位につくことはない」と誓約する意味があったと考えられます。しかしなぜそのような誓約が必要だったのか、よく分かっていません。
 即位から3年後の仁和3(887)年。高齢だった光孝天皇は病の床につきました。未だ後継者が決まっていない中で、危篤となったのです。
 朝廷は、光孝天皇の子で、臣籍降下していた源定省(みなもとのさだみ:867~931)を急いで皇族に復帰させ、親王宣下を行いました。
 さらに光孝天皇は基経を呼び、「源定省を我が子だと思って補佐してほしい」と命じました。
 その後すぐ、光孝天皇が崩御しました。源定省は8月25日に皇室に復帰し、その日のうちに親王宣下を受けて「定省親王」となり、翌26日に皇太子となり、その日のうちに父の崩御を受けて即位するという慌ただしさでした。
 定省親王は即位して、宇多天皇となりました。一旦は皇族の身分を離れた人物が、皇族に復帰して天皇に即位したのは、これが唯一の例です。
 宇多天皇の即位を知った陽成上皇は、
「当代は家人(けにん)にあらずや」
と揶揄したといわれています。「現在の天皇は私の家来だった者ではないか」というわけです。
 過去に同様に、一旦臣下になった者が皇位継承に名乗りを上げたことがありましたね。そう、源融です。藤原基経に一喝されて実現しませんでしたが、この源融にしてみれば、
「一度臣籍降下した者が天皇に即位するのは無理だ」
と言われたから諦めたのに、その後それが実現してしまったということになります。この源融の霊が化けて出て、晩年の宇多法皇を困らせたという逸話が「古事談」に載っています。そんなにも皇位に就きたかったのでしょうか。

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