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30年日本史00735【鎌倉後期】誡太子書 後世への影響

 花園上皇の「誡太子書」の続きを読んでみましょう。
「もし学問をよく学び、徳に基づいた政治を行うことができれば、国を盛んにするだけでなく、美名を将来に渡って残し、皇祖皇宗のための孝行ができるとともに、厚い徳を国民に与えることができるだろう。国は安定し危うくなることはなく、満ちて溢れることはない。短期間の屈辱を受けたとしても、それによって百年の栄えが得られるのであれば、耐え忍ぶようにしなさい」
 この「短期間の屈辱」とは、きっと
「大きな戦乱を避けるために、多少の苦難は甘んじて受けよ」
という程度の意味だったのでしょうが、この文書を受け取った皇太子・量仁親王を待っていた運命はあまりに過酷で、かつ長期に渡るものでした。量仁親王には「光厳院~地獄を二度も見た天皇~」というタイトルの伝記が出版されているほどです。その地獄とはどのようなものだったのか、追ってお話しすることになると思います。
 さて、この「誡太子書」について、何と今上天皇が皇太子時代に言及したことがあります。昭和57(1982)年3月15日、大学卒業時の記者会見において、徳仁親王(当時)は次のように述べています。
「花園天皇という天皇がおられるんですけれども(中略)誡太子書と呼ばれているんですが、この中で花園天皇は、まず徳を積むことの必要性、その徳を積むためには学問をしなければならないということを説いておられるわけです。その言葉にも非常に深い感銘を覚えます」
 さらに50歳の誕生日の記者会見では、次のように述べています。
「歴代天皇のご事蹟を学ぶ中で、第95代の花園天皇が、当時の皇太子、後の光厳天皇にあてて書き残した書に、まず徳を積むことの重要性を説き、そのためには学問をしなければいけないと説いておられることに感銘を受けたことを思い出します。そして、花園天皇の言われる『学問』とは、単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき道義や礼儀をも含めての意味で使われた言葉です。私も50歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています」
 学問を修めて徳を得よ、という祖先からのメッセージに、徳仁親王は強い感銘を受けたようですね。
 花園上皇の著した「誡太子書」は、単に皇太子への啓蒙の書というだけでなく、後世の天皇にも大きな影響をもたらしている書なのですね。

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