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30年日本史00831【建武期】勅許なき出陣

 鎌倉から逃亡した足利直義は、矢矧(愛知県岡崎市)に滞在して京からの援軍を待つこととしました。また、成良親王を危険な戦いに同行させるわけにもいかないので、京に送り返すこととなりました。人質として利用するという発想がなかったようなので、この時点で後醍醐天皇に敵対する意志はなかったのでしょう。
 時行が鎌倉を占領したとの情報に接した朝廷は、討伐軍として誰を派遣すべきかを議論しました。
 このとき、一説によると尊氏は後醍醐天皇に、
「自分が討伐に赴くので征夷大将軍に就かせてほしい」
と要求したといいます。しかし今から鎌倉へ向かう武門の棟梁に征夷大将軍の座を与えてしまうと、当然に鎌倉で幕府を開いてしまう可能性があるわけで、警戒した天皇はそれを許さなかったというのです。
 原因不明ながらこの時期に、足利直義軍を離れて京に戻ろうとしていた成良親王が征夷大将軍に任命されています。戦線から離脱したのに征夷大将軍になるのはおかしな話ですが、これは尊氏を征夷大将軍に就かせないためにあえて別の者を任命したものと解釈できなくもありません。
 思い余った尊氏は建武2(1335)年8月2日、天皇の許可を得ずに勝手に京を出発し、鎌倉に向かってしまいます。この時点では兄弟仲も良好ですから、敗走中の弟を助けるため居ても立ってもいられなかったのでしょう。後醍醐天皇は当然怒ったでしょうが、自分の許可なく行動した者が時行討伐に成功してしまったら自分の立場がないと思ったらしく、8月9日、事後的に「征東将軍」の号を尊氏に与えました。
 ちなみに「太平記」は尊氏に正義があるように描こうとしており、ちゃんと後醍醐天皇の命を受けて派遣されたというストーリーになっています。
 尊氏軍は矢矧で直義軍と合流し、一路鎌倉へと向かいました。その数5万騎です。
 これを聞いた北条時行は、
「鎌倉でただ待つのではなく、討って出よう」
と言って西に向けて出発しました。
 ところが時行軍にとってひどく幸先の悪い出来事がありました。暴風雨が起こったため大仏殿に避難していたところ、なんとその大仏殿が倒壊し、時行軍の兵500人が死亡したというのです。
 これは「太平記」に記されたエピソードであり、時行に天罰が下ったと解釈させるための創作だろうと思われるかもしれませんが、8月4日にこの鎌倉大仏から40キロメートル離れた高幡不動尊(東京都日野市)で不動堂が暴風雨のため壊れたとの記録が残っており、少なくとも暴風雨があったのは史実のようです。史実だとしたら、時行軍の士気は大いに下がったことでしょう。

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