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30年日本史00564【鎌倉前期】曽我兄弟の仇討ち 時政の庇護

 五郎はそれから3年の月日を箱根権現のもとで過ごしました。仇討ちのことは忘れ、仏道修行に精を出していましたが、その五郎に転機が訪れます。頼朝が箱根権現を参詣に訪れ、その一行の中にあの仇・工藤祐経がいたのです。
 工藤は、箱根権現の僧の中に曽我五郎がいることを知って、あえて呼び寄せ、
「自分は伊東の縁者である。お近づきの印に短刀を授ける」
と言って、赤木の柄の短刀を渡してきました。自分が犯人であることが露見していないと高をくくっていたのでしょう。
 五郎は怒りに燃え、忘れかけていた仇討ちを誓い、箱根権現を密かに抜け出して兄のもとへと駆け参じます。
 ちなみにこのとき工藤が五郎に渡したとされる短刀は、現在箱根神社の宝物殿に展示されています。
 十郎は下山してきた弟を温かく迎えました。僧になるのを辞め、武士として生きることを決意した五郎を、十郎は北条時政のもとに連れていき、元服させることとしました。時政は喜んで五郎に「時」の一字を与え、「曽我五郎時致」と名乗らせることとしました。
 ここでなぜ北条時政が出てくるのかというと、実は時政は伊東祐親の娘婿に当たるのです。伊東祐親は曽我兄弟にとっては父方の祖父に当たるわけですが、北条政子・義時姉弟にとっては母方の祖父に当たるわけです。北条姉弟と曽我兄弟とは、実は従兄弟に当たるのですね。
 時政としては、伊東祐親が敵方に回ってしまったのは不幸なことでしたが、その子孫たる曽我兄弟が立派に武士として育ち、幕府を支える御家人となってくれることは大いに喜ばしいことでした。だからこそ喜んで「時」の一字を与えたのでしょう。
 ところが、五郎が箱根権現を抜け出したことを知った満江御前は、驚き悲しみました。十郎がとりなそうとしますが、母は聞く耳を持たず、五郎が訪ねていっても障子をピシャリと閉めて顔を見ようともせず、
「五郎を勘当する」
と言って奥に引きこもってしまいました。余程ショックだったのでしょう。
 兄弟にとって母の理解が得られなかったことは残念でしたが、ともあれ仇討ちの準備が始まります。十郎が最初に行ったのは、工藤の動向を探るため、街道沿いに情報網を張り巡らせることでした。

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