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30年日本史(毎日投稿)

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2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはず…
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2024年6月の記事一覧

30年日本史00912【南北朝最初期】叡山への手紙

30年日本史00912【南北朝最初期】叡山への手紙

 延元2/建武4(1337)年7月21日。新田義貞は足羽城を攻めるべく、堀や溝を埋めるための埋め草や盾を集めました。もはや足羽城の陥落は時間の問題となりました。
 ところがこの段階になって、吉野の後醍醐天皇からこんな勅使がやって来ました。
「新田義興(にったよしおき:1331~1358)と北畠顕信(きたばたけあきのぶ:1320~1380)が敗残兵を率いて男山(京都府八幡市)に立て籠もっているところ

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30年日本史00911【南北朝最初期】足羽城の戦い

30年日本史00911【南北朝最初期】足羽城の戦い

 越前国府の戦いに勝利した新田義貞は、このまま京に攻め上ろうとも考えましたが、斯波高経が依然として越前国内の小黒丸城(おくろまるじょう:福井県福井市)に立て籠もっており、これを陥落させずに越前を出国するのは危険な状況でした。
 延元2/建武4(1337)年5月2日には義貞自ら6千騎を率いて、足利方の足羽城(あすわじょう)を攻め始めた……と「太平記」は記しているのですが、この足羽城というのが越前国内

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30年日本史00910【南北朝最初期】後醍醐天皇の皇子たち

30年日本史00910【南北朝最初期】後醍醐天皇の皇子たち

 登場人物が多すぎて頭がこんがらがって来たことでしょう。恒良・成良が毒殺されたところで、後醍醐天皇の皇子8名をまとめて紹介しておきましょう。
〇 長男・尊良(たかよし:1306?~1337)
 尊良は鎌倉幕府打倒計画に関わって土佐に配流されるなど、かなり早い段階から後醍醐と行動を共にしていた人物です。尊氏が初めて朝敵となった際、新田義貞とともに出陣しましたが、その後、金ヶ崎城の戦いで自害しました。

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30年日本史00909【南北朝最初期】恒良・成良毒死

30年日本史00909【南北朝最初期】恒良・成良毒死

 鯖江の火を見た新田方が次々と援軍を繰り出し、総大将の新田義貞も千騎で杣山城から出陣してきました。
 足利軍と新田軍は川を挟んで戦いますが、なかなか決着がつきません。そうこうしているうちに、越前国中の新田勢が次々と決起し、斯波高経の籠もる越前国府にも火が放たれました。足利軍は急いで国府を守ろうと駆け出しますが、義貞軍の追撃を受けてしまい、結局越前国府は新田勢の手に落ちてしまいました。
 ここに来て

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30年日本史00908【南北朝最初期】鯖江の戦い

30年日本史00908【南北朝最初期】鯖江の戦い

 金ヶ崎城が陥落した後、新田義貞・脇屋義助兄弟はどうにかして反撃を開始しようと兵を集め始めました。(もう遅い気もしますが……)
 新田軍が士気の高い兵を3千騎集めたところで、これを知った京の尊氏は斯波高経に6千騎を付けて派遣します。
 斯波軍は杣山城になかなか近づけず、新田軍と大塩(福井県南越前町)で小競り合いを続けました。斯波軍はその後、一旦は6千騎で越前国府(福井県越前市)に立て籠もりましたが

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30年日本史00907【南北朝最初期】金ヶ崎城の戦い 恒良の機転

30年日本史00907【南北朝最初期】金ヶ崎城の戦い 恒良の機転

 金ヶ崎城は落城しました。
 城中にいた兵は160人余りで、その中で降伏して助かった者が12人、岩の中に隠れて生き延びた者が4人でした。その他の151人は皆自害して果てました。「太平記」は、その後金ヶ崎では彼らの怨霊が留まって、雨の降る夜は食を求めて喚く声が響くようになったと述べています。
 夜が明けると、蕪木の港から
「恒良親王はここにいらっしゃるぞ」
との知らせがあったため、足利勢は迎えをやら

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30年日本史00906【南北朝最初期】金ヶ崎城の戦い 尊良自害

30年日本史00906【南北朝最初期】金ヶ崎城の戦い 尊良自害

 義貞・義助兄弟がいない今、金ヶ崎城の大将は義貞の長男・新田義顕です。兵たちが義顕のもとへやって来て、
「城中の兵たちは飢えのため、矢を射ることすらできない状態です。敵は既に第二の城門を破っており、どう考えても勝てるとは思えません。親王を小舟に乗せ、どこぞやの港へでも逃がすべきです。他の者はしばし戦った後、ここに集まって自害いたしましょう」
と述べました。その後、彼らは立ち上がることすらできないほ

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30年日本史00905【南北朝最初期】金ヶ崎城の戦い 義貞脱出

30年日本史00905【南北朝最初期】金ヶ崎城の戦い 義貞脱出

 杣山城の里見時成や瓜生兄弟が討たれたとの情報が入り、金ヶ崎城に立て籠もる新田軍の兵たちはひどく心細さを感じました。日が経つにつれて兵糧も減っていき、川魚を釣ったり海藻を採ったりして飢えをしのぎました。
 やがて魚と海藻だけでは持ちこたえられなくなり、困った兵たちは馬を毎日二頭ずつ殺し、食事に当て始めました。
 耐えられなくなった金ヶ崎城の兵たちは、新田義貞・脇屋義助兄弟に
「ご兄弟はどうぞ杣山城

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30年日本史00904【南北朝最初期】瓜生兄弟の戦死

30年日本史00904【南北朝最初期】瓜生兄弟の戦死

 話を再び越前情勢に戻します。
 延元2/建武4(1337)年1月11日。雪の勢いが収まったことから、杣山城に立て籠もる脇屋勢は、金ヶ崎城に迫る足利方を討つべく軍を派遣しました。大将は里見時成(さとみときなり:?~1337)です。一方、足利方もこれを予見しており、高師泰の命を受けた今川範国を大将とする2万騎が待ち構えていました。
 夜が明けるのを待って、里見勢の300人が今川勢に攻めかかりましたが

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30年日本史00903【南北朝最初期】瓜連城陥落

30年日本史00903【南北朝最初期】瓜連城陥落

 ここで東国の動向に目を転じてみましょう。復習のために小高城の戦いの稿(00867回)に記載した両陣営の武将たちの名を再掲しておきます。
【南朝方】北畠顕家、楠木正家(瓜連城)、那珂通辰(那珂城)、中村広重(熊野堂城)、広橋経泰(霊山城)、標葉清兼(標葉荘)、小田治久(小田城)、大掾高幹(水戸城)
【北朝方】斯波家長(斯波館)、佐竹貞義(金砂城)、相馬光胤(小高城)
 延元元/建武3(1336)年

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30年日本史00902【建武期】南北朝正閏論争

30年日本史00902【建武期】南北朝正閏論争

 後醍醐天皇が吉野で「皇位はまだ自分にある」と宣言したことで、南北朝時代が始まりました。これ以降、吉野の後醍醐天皇方を「南朝」と称し、京都の光明天皇方を「北朝」と称するわけです。
 我々後世の人間は、南朝と北朝のどちらを正統な天皇と考えるべきなのでしょう。人それぞれ考え方があってよいのでしょうが、明治時代には「政府としての見解を統一すべきだ」との考えから、国を揺るがす大論争となったことがあります。

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30年日本史00901【南北朝最初期】南北朝最初期概観

30年日本史00901【南北朝最初期】南北朝最初期概観

 今回から南北朝時代が始まります。
 南北朝時代は語るべきことが多いので、まずは延元元(1336)年12月21日の南朝成立から延元4(1339)年8月16日の後醍醐天皇崩御までを「南北朝最初期」として取り上げます。たった3年間ではありますが、「太平記」で取り上げられる有名な戦闘、有名なエピソードの多い時代といえるでしょう。
 この時代を語る上で、引き続き「太平記」を主たる参考文献とします。「太平記

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30年日本史00900【建武期】建武期総括

30年日本史00900【建武期】建武期総括

 建武期が終わり、やっと南朝と北朝が成立しました。ここで建武期を振り返っておきましょう。
 鎌倉幕府滅亡から、建武の新政とその崩壊までをお話ししてきました。西暦でいうと1333年から1336年までのたった3年間ですが、あまりにめまぐるしく情勢が変わるので、まるで数十年の歴史を語ってきたように思えます。
 思えば、後醍醐天皇が決起した元徳3(1331)年4月29日から、鎌倉幕府が滅亡する元弘3(13

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30年日本史00899【建武期】南北朝時代の始まり

30年日本史00899【建武期】南北朝時代の始まり

 延元元/建武3(1336)年11月4日。光明天皇は、幽閉中の後醍醐天皇に対して「太上天皇(上皇)」の号を贈りました。
 さらに11月14日、光明天皇は後醍醐天皇の六男・成良親王を皇太子に立てました。これは非常に意外なことです。尊氏は後醍醐天皇との戦いに勝利したにもかかわらず、まだ大覚寺統を廃止せずに両統迭立を続けようとしているのです。
 推測に過ぎませんが、これこそが尊氏と後醍醐天皇との間で交わ

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