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30年日本史00909【南北朝最初期】恒良・成良毒死

 鯖江の火を見た新田方が次々と援軍を繰り出し、総大将の新田義貞も千騎で杣山城から出陣してきました。
 足利軍と新田軍は川を挟んで戦いますが、なかなか決着がつきません。そうこうしているうちに、越前国中の新田勢が次々と決起し、斯波高経の籠もる越前国府にも火が放たれました。足利軍は急いで国府を守ろうと駆け出しますが、義貞軍の追撃を受けてしまい、結局越前国府は新田勢の手に落ちてしまいました。
 ここに来てようやく、尊氏たちは義貞・義助兄弟が生存していたことを知りました。
 尊氏と直義は大いに怒って、
「恒良が『義貞・義助は金ヶ崎で腹を切った』と言ったのは嘘だったか。これを信じて杣山への討ち手を出さずにいたせいで敗北したのだ。このまま恒良を放置していては、またけしからぬ企てをすることだろう。密かに毒を差し上げて死んでいただこう」
と、粟飯原氏光(あいはらうじみつ)に命じました。
 このとき、恒良親王は弟の成良親王とともに幽閉されていました。成良親王といえば、直義と一緒に鎌倉へ下向したことのある人物で、言わば直義に育てられたといってもよいほど足利家と縁深い皇子です。足利家の支援を得て皇太子になったはずでしたが、後醍醐逃亡によって失脚してしまったようです。
 命を受けた氏光が、幽閉中の恒良・成良のもとに薬を一包み持っていき、
「ずっと同じ場所に籠もっていらっしゃると、ご病気になりやすいと存じます。そこで三条殿(直義のこと)から薬を取り寄せました。七日間に渡って、毎朝お召し上がりください」
と言って御前に置きました。
 成良親王がこの薬を見て、
「まだ病気になってすらいないのに、前もって治療をするほどに私たちのことを気遣うのであれば、そもそもこの部屋に押し込めてなどおくでしょうか。これはきっと病気を治す薬ではなく、毒薬でありましょう」
と言って庭に捨てようとしますが、恒良親王は薬を手にとって、
「尊氏や直義がそれほどひどい考えを持っているのなら、たとえこの薬を飲まなくても、我々は死を免れないだろう。この毒を飲んで早く世を去ろうと思う」
と述べました。
 こうして二人はその薬を飲み始め、延元2/建武4(1337)年4月には相次いで命を落とすこととなりました。この暗殺エピソードは「太平記」にしか載っておらず、創作に過ぎないといわれています。というのも、後醍醐天皇に私淑する尊氏がその皇子らを殺すとは思えないですし、そもそも成良については興国5/康永3(1344)年1月6日時点で文書の発給がみられ、生存が確認されているのです。

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