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30年日本史(毎日投稿)

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2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはず…
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2024年4月の記事一覧

30年日本史00851【建武期】三井寺の戦い 三井寺炎上

30年日本史00851【建武期】三井寺の戦い 三井寺炎上

 三井寺の門前にまで新田軍が迫ってきました。
 三井寺を守る細川軍は、板の隙間から槍や長刀で攻撃しましたが、新田軍の渡里忠景はこれを16本も奪い取って捨てました。
 さらに畑時能が
「渡里殿、どいてくれ。扉を引き破ってから合戦しよう」
と言って門扉を蹴りつけました。すると扉に渡してあった木が折れ、門扉は支柱ごと内側に倒れていきました。すごい力です。扉を守っていた細川勢の兵たちは次々と逃げていきまし

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30年日本史00850【建武期】三井寺の戦い 攻撃開始

30年日本史00850【建武期】三井寺の戦い 攻撃開始

 建武3(1336)年1月14日。夜明けとともに後醍醐天皇方が三井寺に攻撃を仕掛けます。
 一番手の千葉新介(ちばしんすけ:?~1336)が城門を破って寺内に攻め寄せますが、細川定禅は千葉軍の横っ面を狙って攻撃し、千葉新介を討ち取りました。人数で劣る細川軍ですが、なかなか善戦しています。
 二番手に北畠顕家軍が、三番手に結城宗広(ゆうきむねひろ:1266~1339)軍が、寺に討ち入りましたが、細川

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30年日本史00849【建武期】三井寺の戦い 援軍来ず

30年日本史00849【建武期】三井寺の戦い 援軍来ず

 北畠顕家が近江国愛知川に到着したときは、なんと5万騎の大軍でした。
 ちょうど顕家が愛知川に到着した建武3(1336)年1月12日、後醍醐天皇方の大舘氏明(おおだちうじあき:1303~1340)が、足利方の六角氏頼(ろっかくうじより:1326~1370)が立て籠もる観音寺城(かんのんじじょう:滋賀県近江八幡市)を陥落させたところでした。つまり後醍醐天皇方の逆襲が始まりつつあったということです。天

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30年日本史00848【建武期】北畠顕家の快進撃

30年日本史00848【建武期】北畠顕家の快進撃

 鎌倉を出発した顕家の進軍の早さはすさまじいものでした。鎌倉以西には敵がいなかったとはいえ、建武3(1336)年1月6日には遠江に到着し、12日には近江国愛知川(えちがわ:滋賀県愛荘町)に到着したといいます。
 多賀城を出発したのは前年12月22日のことですから、僅か22日で800kmを踏破したこととなります。あの羽柴秀吉の中国大返しが10日で230kmですから、その1.5倍のスピードで、かつ途中

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30年日本史00847【建武期】甕の原の戦いと鎌倉占領

30年日本史00847【建武期】甕の原の戦いと鎌倉占領

 新田軍が足利軍に敗れ、建武2(1335)年12月8日に足利軍が鎌倉を出発して京へ進撃したとの知らせが入ったため、顕家は尊氏を追いかけようと、12月22日、義良親王とともに多賀国府を出発しました。
 一方、顕家と同じく奥州にいた斯波家長は、尊氏を助けるべく顕家を追って斯波館を出て南下します。顕家は前方にいる敵だけでなく、後方から追跡してくる敵をも意識しなければならなくなりました。
 顕家はまだ奥州

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30年日本史00846【建武期】北畠顕家出陣

30年日本史00846【建武期】北畠顕家出陣

 建武3(1336)年1月12日。比叡山延暦寺に逃れた後醍醐天皇の元に、嬉しい情報が入りました。2年前に奥州に送り込んだ忠臣・北畠顕家が尊氏を討つべく戻ってきてくれたというのです。
 ここで、北畠顕家のこれまでの動きを見てみましょう。
 北畠顕家は、元弘3(1333)年10月20日に京を出発し、父・親房とともに義良親王(後醍醐天皇の七男)を奉じて奥州へと向かいました。11月には陸奥国の多賀城(宮城

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30年日本史00845【建武期】結城親光戦死

30年日本史00845【建武期】結城親光戦死

 大渡と山崎で新田軍が敗れたと聞き、朝廷は慌てふためきます。
 建武3(1336)年1月10日、朝廷の面々は京を明け渡して近江に逃げることとなり、後醍醐天皇も急いで比叡山に避難することとなりました。しかし天皇の護衛に割ける人員がおらず、天皇はなんと徒歩で比叡山に登ることになりました。後伏見法皇、花園法皇、光厳上皇といった持明院統の面々も比叡山に連れて行かれてしまいました。
 その日の夜、足利軍が都

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30年日本史00844【建武期】山崎の戦い

30年日本史00844【建武期】山崎の戦い

 さらに新田軍は挑発を続けます。
 大渡には橋がかかっていたのですが、新田軍は足利軍の攻撃を防ぐため、あらかじめ橋板を全て外していました。新田軍は、その骨組みだけの橋を
「十分渡れるだろう。渡って来い」
と言って挑発したのです。
 これを聞いた足利軍の野木頼玄(のぎらいげん)という武士が、幅の狭い橋に足をかけて渡り始めました。新田軍が次々と矢を射かけますが、頼玄は足場の狭い橋の上で飛び跳ねて矢をよ

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30年日本史00843【建武期】大渡の戦い

30年日本史00843【建武期】大渡の戦い

 建武3(1336)年になりましたが、反乱軍がいつ攻め込んでくるか分からないという緊急事態だったため、宮中では例年元日に行われるはずの儀式も行われませんでした。
 1月7日。近江国に入った尊氏軍は、印岐志呂神社(いきしろじんじゃ:滋賀県草津市)に立て籠もる僧兵・成願坊(じょうがんぼう)の軍を攻め落としました。
 1月8日には尊氏が石清水(京都府八幡市)に、細川定禅が芥川(大阪府高槻市)に、久下時重

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30年日本史00842【建武期】建武の乱、全国に広がる

30年日本史00842【建武期】建武の乱、全国に広がる

 新田義貞が足利軍に敗れたことと前後して、全国あちこちで後醍醐政権への反乱が発生していました。
 まず建武2(1335)年11月26日に、足利家の一族である細川定禅(ほそかわじょうぜん)が讃岐国で挙兵しました。これを鎮圧しようと兵を集めた後醍醐方の高松頼重(たかまつよりしげ)は、屋島で細川軍と合戦しますが敗北しました。
 同じ日、細川定禅と示し合わせた足利方の飽浦信胤(あくらのぶたね)が備中国福山

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30年日本史00841【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 義貞敗走

30年日本史00841【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 義貞敗走

 新田義貞は僅か500騎で東海道を西へ西へと逃げていきます。その最中、伊豆国府(静岡県三島市)のあたりで通りすがりの僧から
「ここから先は足利勢80万騎が道に溢れ返っていて、とても通れますまい」
と言われてしまいます。
 ところが、義貞の側近・栗生顕友(くりゅうあきとも)と篠塚重広(しのづかしげひろ:1309~1342)は、
「味方500騎に敵80万騎とはちょうどよい」
などと無茶苦茶なことを言っ

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30年日本史00840【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 菊池千本槍

30年日本史00840【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 菊池千本槍

 竹ノ下の戦いは新田軍が一時的に優勢に見えましたが、後半になると足利軍が盛り返して来ました。その原因の一つには、佐々木道誉の裏切りがありました。
 佐々木道誉は手越河原の戦いに敗北し、新田軍に帰順したはずです。ところが記録によると、竹ノ下の戦いの記録ではなぜか足利軍の方に名前が載っているのです。これは、一旦新田方に寝返った道誉が、今度は足利方に寝返ったということでしょう。
 佐々木道誉がどのような

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30年日本史00839【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 義治の豪胆

30年日本史00839【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 義治の豪胆

 足利尊氏・直義兄弟が鎌倉を出陣したのは、建武2(1335)年12月8日のことです。
 西から鎌倉へ入る主要な街道が2ヶ所あるため、足利軍は二手に分かれ、兄・尊氏は竹ノ下(静岡県小山町)で、弟・直義は箱根(神奈川県箱根町)で、それぞれ敵を迎え討つことに決めました。
 一方、新田軍もまた二手に分かれます。尊良親王と脇屋義助は竹ノ下へ、義貞は箱根へ、それぞれ進軍しました。
 12月11日。まず竹ノ下で

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30年日本史00838【建武期】偽綸旨の効用

30年日本史00838【建武期】偽綸旨の効用

 手越河原での敗戦を聞いた鎌倉の足利勢は驚き、棟梁たる尊氏に出馬するよう説得を重ねました。
 このとき、尊氏がいかにして出陣を決意したのか、「梅松論」と「太平記」ではだいぶストーリーが異なっています。
 まず「梅松論」によると、尊氏は
「帰洛せよとの帝のご命令には従いたかったが、鎌倉を離れるわけにいかず、心ならずも帝に背いてしまった。帝への恐懼の思いから政務を直義に任せて出家しようと思っていたが、

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