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ダンス世界の旅(妄想編)

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DANCING 世界のダンス―民族の踊り、その歴史と文化 ジェラルド ジョナスさんの著書に基づきながらお話を進めていきます。
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一番下に身分されていた歌舞伎

女性御法度の令、表向きは公衆道徳の維持のためであるが、 別の要因としては、歌舞伎人気が高まるにつれてそれを制する女性に多額の富と権力が与えられる事を懸念していたともとれる。 日本に深く根付く父権社会の支配である。 しかし、歌舞伎はあまりに人気があって、歌舞伎舞台から女性を追放しても元服前の若者によって演じられつづける。今度は役者をすべて男性にしたのだから。それまで以上に芝居は脚色され刺激的なものになっていった。 1652年、歌舞伎は再度、幕府からの介入をうけ、成人男性のみで

歌舞伎の創設者はロザリオの女性

17世紀初頭、京都周辺の神社を舞台にしていた出雲阿国という若い女性が、京都の鴨川の河原で踊りを披露して観客を魅了していた。まさにストリートダンスである。彼女が考案したかぶき踊りの始まりである。 当時、占い師、手品師、大道芸人などは河原を住家としていた。 神社での阿国の初舞台は、踊りを中心とした舞台で神や仏を喜ばせ、参拝者を楽しませるものであった、 阿国の踊りは必ずしも貞節さの奉納ではなり得なかったが、阿国の魅力は広まっていった。 ちなみにこの頃、神社・仏閣を修繕するための寄

常に新しい古典芸能

古典の踊りが歴史をこえて残り続ける為に必要なものは、その語彙、外観的見映え、演目など、継承する価値があるものを代々伝えていく手段に講じなければならな。 目まぐるしく変化する時代に、音楽、踊りも流行により変わる。 本質やルーツも大事だが、文化として継承して若い人に伝え続ける必要がある。 バレエにおけるその手段は学校であろう。なかでも、主導的立場にあるバレエ団が運営する学校が最もよしとされる。 そうした学校は、古典的スタイルを身につけた若いダンサーを輩出する場として重要なのであ

日本の歌舞伎

日本の歌舞伎はバレエと正反対の方法で古典的な地位を獲得した。 バレエは上流階級から中流階級へと社会構造を下降しながら浸透していった。 歌舞伎は下から上へと受け入れられていった。 歌舞伎の起源は、元々朝廷で抱えられていた荘厳な舞楽(雅楽の舞)ではなく、民衆の娯楽から生まれたもので、現在は双方がユネスコ無形文化遺産として認定され日本を代表する芸能である事は興味深い。 歌舞伎の語源の「傾く」(かぶく)は中心から外れた状態というニュアンス、室町幕府の役人や一般大衆からの指示と、演者と

日本の伝統芸能のダンス

皆様 大変ご無沙汰しております。自粛明けより忙しい日々を過ごしておりましたが、日々の世情にも慣れ、生活も少しづつゆとりがでてきました。 世界のダンスの連載、リスタートを切るにふさわしい題材を考えておりました。 今回は「日本の伝統芸能の踊り”歌舞伎”」をテーマにして華やかに連載したいと思います。 全何回になるのかわかりませんが、お付き合いいただけますと幸いでございます。このグローバリゼーションの世で、外国の方に日本の事を聞かれる事もよくある話かと思いますので、何卒お役立てくださ

慎ましい9人の女性

「ブトヨ」が示唆しているのは、自己抑制である。 全く同じ衣装を着た9人の女性で踊られるのが正式で、ぴったりと合う同一の動き、感情を見せない表情は、彼女たちが一人一人の人間を主張するものではなく全体。9は完全数として考えられ、踊り手は9つの人体の穴、9つの人間の欲望、9つの星座、9つの宮殿の儀礼門を示している。 ジャワ人の宮殿の重要な点は、宮廷の踊りと華やかな儀礼のための永久的な建物であるという点、伝統を重んじる南西アジアは「劇場国家」と分析する学者もいる。ルイ14世時代

国家と舞踏ジャワ島編

ジャワ島は、インドネシアで四番目に大きい島であり、世界で最も人口密度の高い地域の一つと数えられている。全長990キロメートル、幅が最長で200キロメートル。日本の本州半分ぐらいのところに、一億人を超える人々が、山岳地帯の多い国土に暮らしている。そこには50以上の活火山があり、近年も噴火したりしている。5年ごとに噴火し、死者を出したり、破壊を繰り返すが、火山灰などを利用して滋養豊かな稲田で賄っている。 1883年にジャワとスマトラの海峡でおこったクラカトア山の破壊的な噴火の際

ルイ14世が残したもの

若き日のルイ14世が演じたものは、実際キリスト教徒にも認められていた、ギリシャの神アポロである。その印象を残して「太陽王」と呼ばれている。まさに、太陽の周りを人々が動くようなそんな人生を送る。 彼は回想録の中でこう言っている「地上で神の役目を果たしている我々には混迷は許されない。混迷は神であることを否定する」この言葉の通り、一般大衆から貴族階級まで、全ては彼にひれ伏せた。 中でも、ベルサイユ宮殿は、パリから18キロ離れた南西、もともと沼地であった干拓地に作られた。暴徒たち

太陽王とメリーゴーランド

「バレエ」の初期、宮廷の踊り、王妃の滑稽な踊りが上演されていた頃の、中身を紐解いてみよう。 踊りの合いの手として登場していたのが、音楽や歌の間奏曲、詩の朗読、パントマイム、アクロバット、特別に制作された機械仕掛けの装置による数々であった。忘れ難いものに、車の上に載った3段重ねの金と銀の噴水がある。100本の蝋燭が照らし、香りの水を吹き出す車上に王女ナーイアス(ニンフの一種)に扮した豪華な装いの淑女11人が乗ってフロアーを練り歩く。そこに神々の使いであるマーキュリーに扮した1

政治的手段としての踊り

ヨーロッパで踊りを政治的手段として使われるようになったのはそもそもの始まりは、15世紀ルネッサンス期イタリア宮廷内の豪華絢爛たる催しからである。当時、教養のある人物に知れ渡る、神話的人物がその時代風に色々な意味を盛り込まれ、寓話に作り帰られて、繰り返し上演されていた。 イタリア皇太子の前で催された踊りを「バリ」(踊りを表すイタリア語「バラーレ」に由来)と呼ばれた。この催しも膨大な時間と費用をようし、画家、舞台設計、衣装担当、音楽家、脚本家、振付師といった様々な才能の塊である

国家と舞踏

アシャンティの時代、ガーナ第二の都市、クマセ市の北方1.600キロの地域で、人々がデンケラ王国の支配から脱出しようと団結していた頃、ある青年が遭遇した困難な事態について、ヴェルサイユ宮廷人が書き残している。 この青年はドラマーによる非難を受けてしまった。 ダンスは上手いか?と聞かれ、鼻持ちならない返答をしてしまったこの青年は粗探しをされ、溜飲を下げる結果となってしまった。最初からステップを踏み外してしまい、失笑から爆笑を呼び、王の後輪の座で緊張したのだといい、第二舞踏室で

インドの男の踊り

インドの踊りで、男性ばかりで演じられるのが「カタカリ」である。 こちらは、寺院の祈りの踊りではなく、サンスクリット語で書かれた古代劇である。インドケラーラ 州のマバル沿岸の寺院が発祥で、この地域はローマ帝国以前の地中海地域との香辛料の貿易を行っていて、洗礼された劇芸術を生み出している。17世紀に隣国の二人の王様がそれぞれの一座に宗教劇を争わせていた。物語はラーマの生涯のエピソードを題材にしていたが、やがてカタカリへと発展していく。 二人のドラマーの横に二人の歌い手、会話形

インドのダンスとバレエの価値観

ダンス学者カピラ・バトスィヤヤンによると、インドのダンスでは肉体は抽象的で普遍的形態を取るという。バレエなどのダンスは目の覚めるような跳躍によって重力を克服するが、「バラタ・ナーティヤム」ではこのようなテクニックはない「インドのダンサーは、空間よりも時間に関心をおく。ダンサーが常に目指しているのは、完璧なポーズをとって時間が止まったような印象を与えることである」と述べている。インドのダンサーは、筋肉ではなく、骨格全体に重きをおく。よって、彫刻のような性質をもつと考える。 貴

逆転劇インドの踊り

19世紀末期、イギリス人が一方的にインドの社会に偏見をもち、非道徳習慣を改めさそうとしたこともあって、寺院に常駐するダンサーの地位は奈落に落ちる。 マハトマ・ガンジーは言う。「残念ながら、わが国の寺院の多くは売春宿も同然だ」とある。公徳心のある市民たちのキャンペーンで寺院のダンスは禁止された。しかし、そこで踊られていたダンスは今も残っている。 わずかなダンサーたちが、芸をはぐくみつつ、まことしやかに伝え続けたのである。その後インド独立運動(1947年インド独立までの一連の