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インドの男の踊り

インドの踊りで、男性ばかりで演じられるのが「カタカリ」である。

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こちらは、寺院の祈りの踊りではなく、サンスクリット語で書かれた古代劇である。インドケラーラ 州のマバル沿岸の寺院が発祥で、この地域はローマ帝国以前の地中海地域との香辛料の貿易を行っていて、洗礼された劇芸術を生み出している。17世紀に隣国の二人の王様がそれぞれの一座に宗教劇を争わせていた。物語はラーマの生涯のエピソードを題材にしていたが、やがてカタカリへと発展していく。

二人のドラマーの横に二人の歌い手、会話形式の詩に合わせてダンサーは表現する。主にクシャトリヤ(カースト武士)で構成されたダンサー達である。

18世紀、19世紀には民衆劇として広がり統治者や地主に支えられ、寺院外の公共の場所でも行われるようになる。新たな観客をえた「カタカリ」は、20世紀には、宗教的で、上演形態は古典的で、民衆に人気のある独特の力強い舞踏劇へと発展を遂げた。

1920年代、ディーヴァダーシが非難を受けていた頃、カタカリも危機を迎えていた。経済も悪化して、貴族を一座を維持できなくなる。またイギリス文化の影響も受けて、インドの知識層達が「野蛮で馬鹿げた見世物だ」とレッテルを貼った。詩人バラットツール・ナラヤナ・メーノンの努力がなければ、今日に見ることができなかったかもしれない。

1930年代、彼はケラーラ ・カラ・マンダラムという演劇学校を設立。

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11歳からこの学校に入学して、6年間の修行を積む。かなりの難関校のようで、強い肉体に鋭いリズム感、ハードなカリキュラムをこなせる真面目さも必要である。先生が油を塗った生徒の身体の上に乗る、マッサージかストレッチか、という修行はしなやかな関節と自由自在に身体をねじることができるようになるためのもので、食事の摂り方まで指導される。この道場では1,000年以上伝わる訓練だ。

西洋ではダンサーの訓練は、運動選手同様の発想でなされている。バレリーナの訓練もオリンピックに出場する陸上、水泳選手と似ている。だがインドでは、古代ギリシャと同じで身体訓練は精神を鍛えるものであるとされる。ケラーラ では、若い男性が攻撃と防御の技を学ぶために、精神面の向上が求められている。もちろん道場から、何まで綺麗に掃除され、礼儀なども仕込まれる。

「カタカリ」では、基本の姿勢からすべての動きが始まる。膝を緩め、背中を少しまるめ、足を開いて立ち、足の裏の外側に重心をかける。この動きは今にも動き出しそうな鋭い緊張感を生む。ダンスは曲芸的な跳躍、螺旋状の旋回、力強い足の開脚などから構成される。スタミナの強さも有名である。60代になっても現役を続けることも容易になっている。

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衣装とメイクに3時間かけて別の巨人になり変わる。糊のきいた27メートルの長い布を腰に巻き、その上に刺繍が施された豪華な釣鐘状のガウンをはおり、その上に何枚もの重ね着をして帯を結ぶ。頭には天使の輪に似た飾りがなされる。顔の表情をはっきりさせるためのメイクである。7センチの銀の爪を左手につけて演じられるのだ。

これらは、別世界を醸し出すためのもので、劇の内容は神話で壮大なものが多く、神々や英雄や悪魔がぶつかり合う。善と悪の戦いが天と地、地下世界を揺さぶるのである。悪者は感情を爆発させ怒鳴ったりするが、他の役を声を発しない。太鼓と歌で雰囲気を作り出し、なんども同じ言葉が繰り返される。舞台は大詰めに盛り上がっつていく。

「カタカリ」のムドラー(両手を組み合わせ、顔の表情、身体の動きで物語るもの)は24の基本姿勢、組み合わせや、複雑な変形を入れると800もの意味を伝えることになる。例えば、美の象徴とされる蓮の花の表現は手をうまく使い、非常に複雑かつ魅力的である。

※冒頭の動画を参照してほしい。

「カタカリ」の中には孔雀のダンスと言われるものもある。このようなストーリーに関係のないダンスシーンも含まれる。まさにコミックリリーフのような役割を果たしているのであろう。

現在、入場無料で見れるのこの劇は、ラシカと呼ばれるスポンサーによって上演され、役者達には娯楽委員会なるものがギャラの支払いを行うのだと言う。寺院の娯楽委員会は宗教上の暦の上で大切な祝い事を企画している。

子供達が興奮して走り回るほど人気の「マハーバーラタ」は唯一の人気漫画とも呼べるほど有名なお話で、古代インドの二代叙事詩の一つで、紀元前5世紀頃のインドの二つの王家同士の争いである。繰り返し見るものも多いとされるこの舞台は、9時間に及ぶ上演時間を誇り、食べたり、居眠りしたり、話したり各々の過ごし方でみる。しかし、英雄「ビーシュマ」が登場する重大場面になると、皆座り直して舞台に釘ずけになる。妻を侮辱した赤髭の「ドゥシャサナ」との対決の場面などである。

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このように、インドの舞踏劇は現在も受け継がれ、古くから伝わるストーリーに乗せて、人生の教訓を次世代へ繋いでいる。怒りや哀愁、などを瞬間に「カタカリ」は研ぐ済まされた人間の身体を使って、聖なるものの働きを見せる目的を果たすため、今日も鍛錬に励むのである。まさに日本でいうところの「歌舞伎」や「日舞」に通づるものがあると私は考えている。

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追伸となるが、色々調べていると、ハイデラーリの歌声がなんとも魅力的である。彼は、ムスリム出身の人気の「カタカリ」歌手であるが、低カーストであり差別を受け続けてきたとある。寺院の中でクリシュナに祈りを捧げることもできないのだという。掟に守られて伝わるものも本質を見失ってしまっては意味のない事ではないかとつくづく思うのである。

ハイデラーリのドキュメンタリー。パート2まである。



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