常に新しい古典芸能
古典の踊りが歴史をこえて残り続ける為に必要なものは、その語彙、外観的見映え、演目など、継承する価値があるものを代々伝えていく手段に講じなければならな。
目まぐるしく変化する時代に、音楽、踊りも流行により変わる。
本質やルーツも大事だが、文化として継承して若い人に伝え続ける必要がある。
バレエにおけるその手段は学校であろう。なかでも、主導的立場にあるバレエ団が運営する学校が最もよしとされる。
そうした学校は、古典的スタイルを身につけた若いダンサーを輩出する場として重要なのである。
日本で公認の歌舞伎学校が設立されたのは最近のことであり、それは画期的なことであった。若い役者は、一座の年長の役者に稽古をつけてもらうのが伝統的な習わしである。指導にあたる年配の役者は、演出や上演を管理統括する力はもちろんのこと、若い役者にその一座特有の踊り方と演技のスタイルを伝授する。
基本的には指導は一対一で行われる。弟子はすべての動きや表現方法、全体の行程を完全に習得するまで自分の役柄の下稽古を続ける。それが習得できて初めて新しい役の稽古に入る。
トレーニングは5歳という幼い年齢から始め、舞台デビューは6歳以前というのも珍しくない。これは世襲制を取り入れている日本の伝統芸能に特有の指導方法である。ただ、その一族の中にふさわしい後継者がいない場合は、養子縁組によってのみ外部の者が入り込める。
徒弟制度における女形の見習いは、歩き方から指導される。両膝の間に紙を挟み、やや内またで、肘を腰につけ、手の指をそろえて身体を少し左右に揺らしながら歩く練習をする。もし膝の間に挟んだ紙が滑り落ちるのなら、女形の歩き方はできていないことになる。
坂東玉三郎は6歳の時に歌舞伎の世界に入った。そして、6歳の時歌舞伎の家元に養子縁組をした。玉三郎は古典的な女形の役を勉強しながら、六代目中村歌右衛門ら先人の女形を観察することに時間を割いた。
六代目中村歌右衛門は、1970年代半ばに少女役を演じ「人間国宝」になった人物である。
坂東玉三郎は、グレタ・ガルボ、キャサリーン・ヘップバーン、マリリン・モンローらのビデオを繰り返し見て学んだ。彼曰く、女性の行動を習得することは、外国語を学ぶのと同様である。「うまく演技するためには、動作の型とその表現が自分の思考や感じ方に一致しなくてはならない」という。
おそらく、歌舞伎界において最も多才な役者は、三代目市川猿之助であろう。
彼は、男役、女役双方において名声を博した。また、革新的な舞台によって伝統的な慣習、因襲打破を唱える改革者としての評判を得た。
それでも彼は、歌舞伎に女形は不可欠であると考える。
20世紀の改革主義者達は、女性による女役を提案した。女優が女形を演じることはなかったが、それではうまくいかなかったことから伝統的な歌舞伎の家元はこの提案を却下した。
女性はというと、古典の舞台以外のところで歌舞伎を演じてきた。
日本国中で人気を博している歌舞伎劇を専門にする女性の一団こそ、
かの有名な宝塚歌劇団であろう。
ここでは、女性が男優やダンサーとして現代日本の舞台に立つ。
しかし、古典歌舞伎における女形の地位は揺るぎない。
歌舞伎の純粋主義者は、歌舞伎の舞台で女性が女役を演じることになれば、歌舞伎の本質というべき様式化された演技法は削り取られてしまうと強調する。猿之助(市川猿翁)はいう。
「歌舞伎が偉大なる芸術まで高められた背景には、女形の考案があった」
この女形の創案が、ほかの発案とともに、民衆をたのしませ、民衆を楽しませることを生業としていた、役所や公的秩序の維持を任務とする幕府にまで認めさせ。度重なる衝突を回避しえたのだと。
昨今のLGBT問題やジェンダー差別などとなぞらえて考えてしまうと少し芸術としての意味を掛け違えてしまう恐れがある。
ただ、そこから生まれた芸術や文化は多数ある。
今後時代の変化とともに、どのように歌舞伎が残るのか?
女性だが男性の心を持つ女形など生まれる可能性もあるのだから、当時の歌舞伎も男性が女形を演じる。その違和感すらを楽しんだであろうし。
筆者も注目していきたい。
次回は、起源から、当時の演じられていた舞台、宗教的な部分まで少し踏み込ん見ようと思う。
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