【創作小説】魂の在処 ⑯
☆☆主人公・葵とその義兄・薫の、前世を交えての兄弟愛のお話です。はじめから読みたいという方は、こちらからどうぞ☆
☆今回すこし「長め」です。ご注意ください><
※
「神楽さま、大変です! 神無月に行われる『神の口寄せの儀式』の舞姫を、おつとめすることになりました!」
一瞬、思考が跳んだ。昼食を終え、ぼんやりとくつろいでいたところだった。
神楽は投げ出していた両足を整え、部屋に駆け込んできた朱雀の正面に正座した。
「口寄せの儀式といえば、神巫女としての大役だと聞いたが。それを、わたくしが?」
「ええ、そうです!」
興奮覚めやらぬ調子で、朱雀は鼻息を荒くしながら頷いた。
「嫌じゃ。断って」
朱雀は、唖然とした顔であんぐりと口を開いたまま固まった。
「神楽さま……口寄せの儀式といえば、神巫女としてのおつとめで一番大切な行事。それをまかされたのですよ? こんな嬉しいことがございますか!」
「では、乗り気なそなたが踊ればよいのではないか」
神楽は正していた姿勢を崩し、再び両足を前方に投げ出した。袴の裾からまだ小さくて細い足が露になる。朱雀は、一重瞼の細い目を更に細くして吐息をつく。
「神楽さま、いいですか。これはお仕事です。人はみんな各々に与えられた役割というものがござます。たとえば、神楽さまにずっとお仕えしてお守りするのが私の役目でございます。それと同じこと」
「朱雀は、仕方ないからわたくしの傍にいるのか?」
「屁理屈を申されるな」
朱雀は、激しく首を横に振る。そして神楽の正面に、ひざまずいた。
「神楽さまが、巫女のおつとめに関してあまりよく思ってないことは充分に存じております。ですが私は、舞を踊る神楽さまのお姿がとても好きでございます。桜の花が舞うように美しく、見るものの心を和やかにさせてくれます。もちろん……」
朱雀は言葉を切る。そして、神楽の小さな頭にごつごつとした手をそっと添えた。
「桜餅をほうばる神楽さまも、私は大好きですよ」
そういって、目を細めて笑った。
「……朱雀は、ずるい」
「何かおっしゃいましたか?」
「なんでもない」
そんな風に、優しい笑顔をみせられると、何も言えなくなるではないか。神楽は投げ出していた足を折り、膝を抱えた。
――舞姫、か。
神巫女として修行をはじめて七年。始めての大きなおつとめ。地神さまの大事な御言葉を受け取る大役だ。そんなものが、こんなわたくしに務まるのだろうか。
「ああ、そうでした。明後日の正午に、儀式に参加される方との「顔合わせの儀」がございます」
明後日。心臓がどくんと鳴る。
『明後日、月が空に上がる頃にまたここへ参ります』
別れ際の朔夜の笑顔が、神楽の瞼に浮かぶ。自然と口元が緩む。
「神楽さま?」
「ああ、うん。承知した。で……なにをすればいいの?」
「難しく考えなくてよろしいのですよ。ただの顔合わせです。予行だと思っていただければ大丈夫です。あ、しかし、ひとつだけ――」
「なに?」
神楽は、首をかしげて朱雀を見上げる。
「くれぐれも、お振る舞いだけは大人しくなさってください。供物に好物が捧げられていたからといって、間違っても手を出したりせぬよう」
「待て。わたくしだって、大勢人がいるまえではそんなことしないわよ」
「どうだか」
両掌を天井に向けて、朱雀は肩をすぼめてみせた。
横笛を手に、暖かく微笑む朔夜の顔が脳裏によぎる。
朔夜さまは、わたくしが神巫女と知ったらどんなお顔をされるのだろう。やっぱり――他の人たちと同じように、わたくしと一線を置かれるのだろうか。
※
神の口寄せの儀式が行われる地神が祀られたその祠は、霊山の中腹にある洞窟のような場所に設置されていた。
窟内にある小さな着替えのための部屋に入ると、神楽は用意されていた儀式用の巫女装束に着替えた。金箔で描かれた華の模様がまこと美しい千早を羽織り、頭には華冠のようなものを乗せる。
「神楽さま、こちらを」
朱雀が差し出したのは、舞に使用する神楽鈴だ。軽く振りかざすと、しゃん、と心地のよい音が響く。
「瞼を閉じたまま、少し、じっとしていてください」
朱雀はそう告げると、神楽の目尻に薄く紅をひいた。すっかり神巫女になった神楽を見て、朱雀はうんうんと感慨深そうに頷く。
神楽の準備が整うと、社の神主は神楽の手を引き、行事関係者の元へと向かった。主催者の元で挨拶をすませると、今度は祠の少し手前に立つ小さな建物へと向かう。
「神楽さま、いいですか。こちらは、舞の時に伴奏をつとめていただく雅楽寮の方々がいらっしゃいます。くれぐれも粗相のないよう願いますよ」
社の神主は、緊張した面持ちでそう告げ、静かに小屋の扉を引いた。
と、同時に、中から人が現れた。その人の顔をみて、神楽は息を飲む。どんぐりのような瞳を、大きく見開いた。
「さ――」そういいかけて、慌てて口を塞ぐ。
そこに、朔夜が立っていた。
白い狩衣を身にまとい、長い髪は、頭に乗せられた烏帽子の中におさまっている。先日見た時とはまたちがった印象を受け、神楽はすこし緊張した。
雅楽寮。そうだ、朔夜さまはたしか、雅楽寮でつとめているとそうおっしゃった。まさか、こんなところで。
「やあやあ、これは……朔夜さま。この度、口寄せの儀式で舞姫をつとめさせていただく「かぐら」と申すものです。以後、おみしりおきを」
社の神主は、丁寧にそう告げ、朔夜に向かって頭を下げた。
「朔夜さま?」
ぼんやりと立ち尽くす朔夜をみて、社の主は首をひねった。
「ああ、これは……」
我にかえったように朔夜が口を開く。
「可愛らしい神巫女さまでございますね。舞では、横笛をつとめさせていただきます「さくや」と申します。どうぞよろしく」
朔夜は満面に笑みを浮かべ、神楽を見つめた。そしてそのまま、祠の奥へと歩いてゆく。
「あ」
後を追いかけようと、神楽は身をよじる。その肩を、神主がしっかりと捕まえた。
「ささ、他のお方にもご挨拶をすませてしまいましょう」
神主は、神楽の腕を強引に引く。後ろ髪ひかれる思いで、扉の向こうを覗きみた。しかし、もう朔夜の姿は近くには見えなかった。
口寄せの儀式の予行は、滞りなく終了した。
社の神主は、再び窟内中を駆けまわっている。いつもの巫女装束に着替えをすませ、神楽は朱雀が荷物をまとめるのを小屋の傍で待っていた。
「……神巫女さま、だったのですね」
ふいに声をかけられ、神楽の肩がびくんと跳ねた。振り返り見上げると、朔夜が微笑したまま立っていた。
「わたくしも……驚きました。まさか、口寄せの儀式に朔夜さまがいらっしゃるとは思わなくて」
「とても素敵な舞でしたよ。こうしてお話ししている時の貴方はまだ可愛らしいのに、舞をおどってらっしゃるときは、少し妖艶にさえ見えました」
「よう……えん?」
「ああ、とても色気があるという意味です」
とたんに、神楽の顔が真っ赤に染まった。
「そして、とても神々しい」
――神々しい。そんな言葉を、この人の口から聞きたくない。
「わたくしは……そんな神々しいものではありません。だって、供物として捧げるはずの桜餅を、こっそりくすねてしまうような者です」
朔夜は、驚きのあまり目を丸くした。そして、「ぷ」と噴き出す。
「神に仕える神巫女が、供物に手をだすとは! これは、いい!」
腹を抱えて豪快に笑った。
「わっ、笑いすぎです!」
なんとも気まずくて、神楽は耳まで真っ赤に染めた。肩をすぼめる。
「供物に手を出してしまわれるくらい、神楽は桜餅が好きなのですか?」
今だ、笑いをこらえきれず朔夜は口元を押さえたまま尋ねた。
「あの、桜の葉のほんのりとした甘い香りがとても好きなの!」
目を輝かせて頷く。
「たしかに。とてもよい香りがします」
「あの香りを目の当たりにすると、手を出さずにはいられないの」
顎の下で両手を組みあわせ、神楽は目を大きく開く。
「桜の樹も大好き。傍にいると、桜餅の香りがするような気がして、どうしよう。わたくしなんだか、おなかがすいてまいりました!」
再び朔夜は噴き出した。
「今までいろんな女性にお会いしましたが、貴方のようなおもしろい方にお会いしたのは始めてだ」
そういってまた、くすくすと笑った。
その手が、まっすぐに神楽の頭に添えられた。やさしくいたわるように、その黒髪を撫でる。そして、神楽の耳元に顔を近づけ、囁いた。
「今宵の横笛も、楽しみにしていますよ。神楽」
かぐら。すぐ耳元で、朔夜さまの声が響く。わたくしの名を呼ぶ、低くて心地のよい声。心のどこか深い場所が、ぎゅっとなる。
朔夜さまの狩り衣から、とてもよい香りがした。鼻腔を刺激する。どんどん体の中から熱いものが沸き出てくる。静まれ、お願いだから静まって。真っ赤な顔をみられたくなくて、袖口で頬を隠す。
「朔夜さま、こんな所にいらしたのですか」
突然響いた知らない声に、顔をあげた。聞いたことのない声。女性の声。一瞬にして、体の中の熱い何かが引いた。
「雅楽寮のみなさまが、探しておられましたよ」
あでやかな色の小袿を羽織った面長の女性は、軽く口元に手をあてがい、朔夜の着物の裾を軽く引いた。右目の下の泣き黒子が白い顔に変に目だって見えた。
「ああ、すまない纏。すぐに行くと伝えて」
「いけませぬ。朔夜さまがそろわぬと、いつまでたっても皆、帰宅できませんわ」
そう言いながら、纏は神楽の方をちらりと見据えた。その瞳になにか刺すようなものを感じ、神楽は胸を押さえた。
「失礼いたしました。貴方が今回の舞姫さまですね」
朔夜の腕をつかんでいた手を離し、纏は神楽にまっすぐに体を向けた。軽く会釈する。
「はじめまして。私は、朔夜さまの許婚で「まとい」と申します。儀式での舞い、楽しみにしております」
その表情には明らかに、棘があった。再び神楽に軽く頭をさげると、纏は朔夜の腕をぐいと引いた。
「神楽、また!」
朔夜はそう告げると、纏に腕を引かれながら、雅楽寮の者たちがいる小屋の中へと入っていった。
神楽は呆然と立ち尽くした。
許婚――。それが、なんなのかくらい、わたくしにだって理解できる。朔夜さまには、もう、決められたお方がいらっしゃるのだ。
「だから……なんだというの。わたくしは――」
そう、自分は、神に身を捧げる巫女なのだ。
知らぬまに、両手は爪が食い込む程に、きつく拳を握りしめていた。
※
――もう、ここへは、来てくれないかもしれない。
ご神木の傍に腰を下ろし、神楽はぼんやりと宙を仰いだ。空はいつの間にか茜色に染まり、そびえ立つ縄文杉の切れ目からは、東雲色に染まった雲がいくつも浮かんでいた。
すぐ傍にある大きな岩に視線を飛ばす。そこに腰を下ろし、やさしく微笑む朔夜の幻を見る。慌てて、首を振った。
違う。朔夜さまは、わたくしに横笛を教えてくださるために、ここに来てくださっただけ。それ以上でも、それ以下でもない。わたくしなど、朔夜さまにとってはまだ年端もいかぬ小さな子供。
「……」
昼間みた小袿を羽織る面長の女性の姿が瞼に蘇る。綺麗なお方だった。
神楽は再び、はげしく首を振った。腰に刺した朱色の横笛をそっと手にとり、胸の前に抱えた。
あんな風に豪快に笑うお方をはじめてみた。
誰もがみんな、神巫女としてのわたくしの前ではあんな風には笑わない。失礼があってはいけない。気安く触れてはいけない。神楽さまは、神巫女さまなのだから。
そんな風に、わたくしとの間に一線を置かれてしまう。
だから、嬉しかった。あんな風に、笑ってくださる朔夜さまが。一人の人として、接してくださる朔夜さまが――。
目尻に、じんわりと熱いものがにじむ。
もう直、月がのぼる。約束の時刻がくる。だけど。
「……どんな顔して会えばいいの」
横笛を胸に抱えたまま、神楽は呟いた。
「いつもの笑顔で」
聞き慣れたその低い声に、神楽は反射的に顔をあげた。
顔合わせの儀で見たときと同じ、白い狩り衣姿の朔夜が立っていた。長い髪も烏帽子の中におさまったままだ。手には、美しい装飾のなされた紫色の横笛袋と白い包み。
「昼間はお話しの途中で、大変失礼をしました」
そういって朔夜は、静かに頭を下げた。
「……お帰りください。わたくしとて、許婚の意味することくらい理解できます。そのようなお方が、いくら横笛のためとはいえど、女の元へ夜な夜な参るのは……」
いや、違う。朔夜さまはただ、わたくしに横笛を教えにきてくださるだけだ。これではまるで、わたくしたちが――。
朔夜が、軽く笑った。
「なっ、なにがおかしいのでございますか! 笑うところでは」
「すみませぬ。あまりに貴方が、似合わぬ言の葉を連ねるものだから、つい」
神楽は、顔を真っ赤にして憤慨した。
「子供だと思って、馬鹿にするおつもりか!」
そういって思わず朔夜に、掴みかかろうと腕をのばす。その手を、朔夜はさらりと捕まえた。
「なにを!」
振り払おうとしたその時。手になにかを握らされたことに神楽は気づく。白い布にくるまれた細長いなにか。
「……これ、は?」
「昼間、貴方にお渡ししようと思っていたものです。どうぞ、広げてみてください」
神楽は言われるがままに、白い包みをほどく。中から出てきたのは、一本の扇子だった。扇子の両端を持ち、静かにそれを広げた。
思わず、感嘆の声がもれた。
それは、薄紅色と白を基調にしたとても美しい扇子だった。扇面には、透き通るような白い曼珠沙華の花が描かれている。ほんのりと、香のかおりが漂う。桜餅のような、甘い香り。朔夜の、ハシバミ色の美しい瞳をまっすぐに見上げた。
「これを、わたくしに?」
朔夜は頷く。
「神寄せの儀式での舞をなさるときの、採物としてお使いくださればとても嬉しい。貴方には、薄紅色がとてもよく似合う」
薄紅色。
わたくしがとても好きなもの。
魂の何処か奥深い場所に、やさしい光が灯る。さきほどまで、真っ暗な闇の中を彷徨っていたような心もとない気持ちは、どこかに飛んでいってしまった。
この人は、ちゃんと自分を見てくれている。わたくしの好きなものを、巫女としてのわたくしではなく、神楽であるわたくしを。
目頭が熱くなる。
「神楽は……夜桜は、好きですか?」
「え、ええ。とても好き。まだ幼かった頃、屋敷の庭にあった桜の樹が、夜になると灯篭の明かりをうけてぼんやりと輝くのが、とても好きでした」
「では、今宵はとても大きな桜の元へお連れいたしましょう。少し歩きますが、平気ですか?」
桜――。
「はい、こうみえても、体力には自信があります!」
神楽は意気込んだ。まっすぐに差し出された大きな白い手に少しとまどう。ためらいながら、神楽はその手をとった。
次第に辺りは闇に包まれてゆく。朔夜に手をひかれ、しばらく歩くと小さな鐘楼が目に飛び込んできた。その少し向こう、小高くなった丘の上に、一際大きく枝をひろげた桜と思しきシルエットが見える。
弾む息をなんとか抑え、神楽は自分の何倍もある大きな桜の樹を仰ぎ見る。漆黒に移る手前の深い紫色に染まった空。それを背に、桜の樹は凛として存在している。
「このエドヒガンザクラは、樹齢百年を越えるといわれています。人の生に例えれば、親子二代にもわたる長きの間、この桜はこの世の移り変わりを見てきたのでしょう。そう思うと、なんとも感慨深いものがあるとは思いませぬか?」
神楽は、仄暗い闇の中にぼんやりと浮かぶ桜の樹を見上げたまま頷く。
ふいに、辺りが少し明るくなり、神楽は驚き振り返った。近くに、小さなお寺と思わしき建物があった。灯はそこからもれてきている。ここにはかろうじて灯が届く程度の明るさでしかなかったが、それでも、漆黒の闇に比べれば幾分気持ちが和ぐ。
やがて、空には煌々と月が輝きはじめた。少し風が吹き、桜から薄紅色の花びらがはらはらと舞い散る。それを、手ですくいとるように神楽は両手で柄杓をつくった。掌に舞い落ちた花びらを、きゅっと握りしめる。
「――扇子、とても、嬉しかった。ありがとう」
心を込めて、朔夜の瞳をみつめた。
「口寄せの儀式、必ず成功させてみせます」
朔夜から贈られた薄紅色の扇子を、宙に向かって大きく掲げてみせた。そんな神楽の横顔を見て、朔夜は顔をほころばせた。
「雅楽寮の者も口々に申しておりました。神楽さまは、とても聡明でいらっしゃる。神巫女にふさわしいお方だと。もちろん、私もそう思っています。皆、貴方の舞をとても楽しみにしております。お体には充分に気を」
「……朔夜さまも、やっぱり、同じなのですか」
言の葉を遮るようにそう告げた神楽を、怪訝な顔で朔夜は見下ろした。
「同じ?」
「父さまや母さまでさえ、今はもう、神巫女としてのわたくししか頭にないようです。送られてくるものは、巫女に関するものばかり。周りのもの、皆……求めるのは神巫女としてのわたくしだけ。朔夜さまは、そうではないと……わたくし自身に、興味を持ってくださっていると勝手に思いこんでおりました。だけど」
だけど、やっぱり。
朔夜から贈られた美しい扇子を、ぎゅっと握った。
昨夜はその様子を、やるせない思いで見守った。その唇が静かに開く。
「……私たちはもしかすると、よく似ているのかもしれませんね」
ひとりごとのような静かな声だった。
似ている? わけもわからず、その白い顔を神楽は見上げた。
「私の家は、古くからのしきたりや階級を重んじるばかりに、父や母は兄や私に幼少の頃から厳しく教養などを押し付けました。兄はいずれは家を継ぐもの。しかし私は、どこかの貴族との権力の橋渡しにするくらいにしか価値はありません」
「価値、って……そんな」
朔夜は薄い笑みを浮かべた。
「先日、私の元へ来て許婚だと名乗った人を覚えていますか?」
黙ったまま、神楽は首を縦に振る。
「あの方と私は幼馴染なのですが、彼女の家がこの辺りでは名の知れた貴族のひとつ。私は幼い頃に、彼女との将来を親に決められました。もちろん、彼女と私が結婚することで、家の知名度をあげたいがためです。そこに私の意思など、介入することさえ許されない」
朔夜は、再び夜桜を仰ぎ見る。
「息苦しくて、わざと父や母に反抗してみては、ふらりと放浪の旅に出てみたり。思えば、自分が自分らしく呼吸できる場所を、ずっと探していたのかもしれない」
寂寥感ただようその横顔。あるべき自分をみてもらえない寂しさ。朔夜さまは、わたくしと同じなのだ。胸が、ひどくしめつけられる。
「神楽」
朔夜は振り返った。視線が絡む。寂しそうに何かを求めるハシバミ色の瞳が、柔らかな眼差しで見つめる。
「始めて貴方にお逢いしたときに、なんて澄んだ音を奏でる人なのだと思いました。決して上手くはないけれど、音に魂がこもっているとでもいうのか……生きている音だと思いました。どんなお方が吹いていらっしゃるのかと思えば、こんなに可愛らしい姫ではありませんか。正直、上手い奏者はいくらでもいます。しかし、生きた音を奏でることができる奏者というのはなかなかいません。貴方の事がとても気になりました。ただ純粋に、貴方という人を知りたいと思いました。それでは……答えにはなりませんか?」
やさしい言の葉に、神楽はきゅっと瞼を閉じた。
ただ純粋に。知りたいと。
この人は、わたくしが一番欲しかった心をくださる。
目が潤む。慌てて袖口で顔を抑えた。
朔夜の大きな掌が、神楽の頭にやさしく触れた。長い髪をなでるように、手を静かに動かす。その手が、するりと神楽の頬に落ちた。
まっすぐに朔夜を見上げる。ビー玉のような大きな瞳が、ゆらゆらと揺れた。
「私のために、舞を踊ってはくださらぬか?」
「――朔夜さまの、ために?」
目を細めて、朔夜は頷く。
頬に触れたその手は、とても冷たかった。その手がかすかに震えているのを、わたくしは見逃すことができなかった。
「巫女としての舞ではなく、誰のためでもない……私だけのために」
朔夜の低い声が、胸にずんと響く。唇をかみしめ、神楽は頷いた。
――朔夜さまの、ためだけに。
朔夜から贈られた薄紅色の扇子を手に、神楽は静かに瞼を閉じた。
「私が伴奏をつとめましょう」
紫色の笛袋から、朔夜はするりと横笛を抜いた。構える。にごりのない美しい音色が辺りに響く。その音が泣いているような気がして、神楽はいたたまれなくなった。
呼吸を整える。閉じていた瞼を開き、扇子をにぎる腕を力一杯、天に向かって伸ばした。
頭の中で想い描くイメージを、
静かに、
艶やかに、
腕に足に、伝えてゆく。
神楽が操る薄紅色の扇子は、まるで散りゆく桜の花びらのように見えた。
舞う。
桜の花びらのように、神楽の腕が、足が、宙を舞った。
笛の音が静かに止み、神楽は足をゆっくりと地に戻す。
月明かりにぼんやりと輝く朔夜の瞳を、しっかりと見つめた。二人の視線がおだやかに絡まる。
「朔夜さまが、好きです」
自分でも驚く程すんなりと、その言の葉は喉から飛び出した。薄紅色の扇子を、抱きしめるように胸の前で掲げる。
わかっている。わたくしは巫女で、神にこの身を捧げなくてはならない巫女で。迷いがあってはならぬ。そこに、別の想いがあってはならぬ。充分に、わかってる。だけど。
心地よい低い声が、はしばみ色の綺麗な瞳が、優しく撫でてくださる大きな手が、なによりも、わたくしをただの神楽だと思い、接してくださったことが。
「……朔夜さまが、好きです」
神楽は、唇をかみしめ、顔をくしゃりと歪ませた。その瞳に、じんわりと涙の粒がにじんだ。
朔夜は慕情あふれる瞳で神楽を見つめた。頬をゆるめ、その名を静かに呼ぶ。その肩をやさしく抱き寄せた。
「私も、貴方がとても、愛おしい。どうか、貴方は貴方のままで……桜の花のように可愛らしい貴方のままで、いてください」
朔夜の手は、神楽のまだ小さな頭を大事そうに撫でた。愛情込めて、強くだきしめた。
しばらくの間、掌で互いを確認しあうように、二人は身を寄せあった。
朔夜の抱きとめる腕が少しゆるむ。月明かりで逆光になった朔夜の青白い顔を、そっと見上げた。熱を帯びた朔夜の眼差しが、じっとわたくしを見つめている。どくどくと心臓が早鐘のように打つ。
昨夜は神楽の前髪を右手でそっとかきあげた。小さく白い額に、桜を形どる薄紅色の刺青があらわになる。静かに朔夜の顔が近づく。刺青に触れるようにやさしく口付けを落とした。
突然の事に神楽はぎゅっと瞼を閉じる。そっと瞳を開くと、溶けてしまいそうな朔夜の甘い表情がそこにある。恥ずかしさに、耳まで真っ赤に染まった。
朔夜の瞳は、うっすらと潤んでいるように見えた。切れ長の瞳。長い睫が上下する。
その顔がゆっくりと近づく。唇が、ついばむように優しく触れた。
冷たい唇の感触に、心臓がとまりそうなくらい、激しく打った。
もう、どこへも戻れない。
朔夜さまを知らなかった自分には、もう、戻れない。
朔夜の腕の中で、神楽はぼんやりと舞い散る桜の花びらをみつめていた。
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