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ハラルド美髪王(ノルウェー)とアゼルスタン勝利王(イングランド)

9世紀前半、群雄割拠のノルウェーに、圧倒的なカリスマ性を持つ強力な王が現れました。〈美髪王〉と綽名されたハラルド1世(ハーラル1世)です。
ヴェストフォルドの王であった彼はホルダランドのエイリーク王の娘ギュザに求婚した際、「ノルウェー全土を支配する王となられましたら、わたくしは貴方の妃となりましょう」と、つれなく断られたことで奮起、各地を征服し、領土を広げていきました。最後の戦いとなったのが、有名なハヴルスフィヨルドの戦いです。

そして、ついにノルウェーの大部分を治める王になったハラルドは、目的達成まで手入れをしないと決めていた髪を切り、梳ったところ、大層美しくなったので、〈美髪〉のハラルドと呼ばれるようになりました。ちなみに以前の綽名は〈蓬髪〉のハラルド、〈虱〉のハラルドなど、散々なものだったようです。

そのハラルド王には、前述のギュザを含め、妃や妾が多数おりまして、たいへんな子沢山でした。それが後年、混乱を招くことになるのです。

さて、同時代の英国には、度重なるヴァイキングの襲撃に立ち向かった偉大な王がいました。ウェセックスのアルフレッド大王です。彼はまた、イングランド統一の礎を築き、その一大事業は息子のエドワード長兄王、孫のアゼルスタン王へと引き継がれます。

アゼルスタンが三十歳でウェセックス(後にイングランド)の王位を継承した時、ノルウェーのハラルド美髪王は七十代の初め頃と思われ、親子以上の年齢差がありましたが、ハラルド王の末息子ホーコンの養育を通じて、二人が親しい間柄になったことが『ヘイムスクリングラ』(ノルウェー王朝史)に記されています。


ハラルド美髪王とアゼルスタン王の間に友誼(のようなもの)が存在したとの伝承はノルウェー側の『ヘイムスクリングラ』に出ているだけなのか、以前から疑問に思っていました。
そこで、英国側の史資料を探してみたところ、12世紀イングランドの修道士マームズベリのウイリアムがラテン語で著した『歴代イングランド王の事績』に、二人の王について書かれている箇所を見つけたのです。

『歴代イングランド王の事績』には、ハラルド王とアゼルスタン王には海を挟んで共通の敵(デーン人)がいたので、ハラルド王はノルウェーからイングランドに使節団を派遣したという記述があります。
マームズベリのウイリアムは、「ハラルド王が派遣した軍船は、紫色の帆、船縁に沿った金色の楯の列、黄金で装飾された舳先と船尾が特徴的で、使節団の代表者はヘルグリムとオスフリッドという二人のノルウェー人だった。ハラルド王は、北の王の威厳を見せるために、豪華な軍船をアゼルスタン王のもとへ寄越した」(原書の英訳より)と、かなり具体的に記しています。


アゼルスタン王によるホーコンの養育は英国側の史料には出ていないのですが、20世紀の歴史家サー・フランク・ステントンは自著の中で「ハラルド王とアゼルスタン王の間にウイリアム・オブ・マームズベリが書き残したような交流があったなら、ハラルド王の末っ子であるホーコンが〈アザルステイン(アゼルスタン)の養子〉であったというノルウェーの伝承が事実であることは充分あり得る」と書いています。

最近英国で出版されたアゼルスタン王の伝記(Tom Holland : Athelstan, Penguin Monarchs 2018)には、あくまで史料に基づいてはいないとの注釈付きながら、ホーコン善王の養育についても述べられています。
事実、そうだったかもしれない……と空想を膨らませるのも、歴史に思いを馳せる楽しみの一つですね。


『ヘイムスクリングラ』所収の「ホーコン善王のサガ」をもとに創作を加えた小説を書きました。
もし興味を持ってくださったら、ぜひ読んでみてください。


拙作のヴァイキング小説の特徴は、スカルド詩を物語に織り込んでいることです。
下巻には、ホーコン善王のスカルド詩人エイヴィンド・フィンスソンの有名な詩「ホーコンの歌」(Hákonarmál)の全訳も入れました。

また、異教の慣習(供犠祭、冬至祭、婚儀など)についても詳しく触れているので、北欧神話の世界観がお好きな方にもお愉しみいただけたら嬉しいです。


このページ、トップの画像は「ホーコン善王のサガ」より。右端がホーコン善王です。

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