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【きみの色】の主題歌がミスチルな件

『けいおん』や『聲の形』の山田尚子監督の最新作『きみの色』の主題歌(エンディング曲)にMr.Childrenが採用されたことについて賛否両論が起きている。

結論から述べると、私は失敗だったと思う。

一つ断っておきたいのは、私は映画全体としては大傑作だと思ってる

しかし映画館で観ていて、エンディング曲だけは著しくミスマッチだと感じた。

私はデビュー時からの直撃世代だからミスチルは好きだけど、『きみの色』のエンディング曲に使われたのは違和感が強くて興醒めした。

大人ミュージシャンを起用するにしても他の選択肢があったように思う。桜井和寿の声が悪い意味で強すぎた。例外的にギターの音色は映画にマッチしてて良かった。アレンジを担当者の苦労を察する。

https://youtu.be/ZGvDTx2rf80

▼作者の意図を知るべきか:

ネットでの批判的な声に、心を痛めたらしきファンが次のように呟いた。

みんなキネマ旬報読んでる?
理解した上で言ってるなら言うことないです

午後1:39 · 2024年9月2日
https://x.com/ss11_moon/status/1830465514692599855
川村「Mr.Childrenの名前は山田さんと話し合う中で出てきました。今回はメタ構造になっていて、物語の中に主人公たちの素人バンドのライブがあるので、エンドロールのような作品の外側まで同じような音楽が流れたらハレーションを起こしてしまう。しかし主題歌をまったく違うタイプの曲にすれば、子どもたちの世界を大人の視点から眺めるという構造になる。主題歌も作品にとっての必然性から選択しました。」

情報共有してくれて、ありがたい!

…でも私に言わせれば「知るかよ」と一蹴できる話である。(苦笑)

(もちろん本人に面と向かって「知るかよ」とは言わないけど、仮に対面したら言葉は選びつつも、オブラートに包んで私は同じことを言うと思います)

作品とは本来、作品単体だけで評価されて良いものである。

逐一、作り手の背景や意図や経緯まで熟知して、作り手とシンクロ率高く共感すること「だけ」が正しい鑑賞方法ではない。

もちろんそこまで熟知して深く共感するのも楽しみ方の一つなので私は否定しないが、それを他人にまで押し付けるのは余計なお世話である。

理解してなくても言っていいだろ!」と私は強く思う。

▼この発言は信用できるのか:

そして、ここからはリテラシーの話になるが、この人が引用してきたインタビュー記事での発言はあくまで川村元気プロデューサーの見解なので、実態が本当にこの通りだったのかには注意が必要である。

これは当事者2名のプロフィールを詳しく見ると、なんとなくパワーバランスが見えてくる。

川村元気、1979年3月12日生まれの45歳。男性。映画プロデューサー、小説家、脚本家、映画監督、絵本作家。STORY株式会社代表取締役プロデューサー、東宝株式会社映画企画部副所属。2001年、東宝入社。2005年、26歳で映画『電車男』を企画・プロデュースし、37億円の興行収入を記録した。その後も『デトロイトメタルシティ』『告白』『悪人』『モテキ』『君の名は。』『怒り』『何者』とヒット作を連発。2017年、STORY inc.を設立し、翌年には東宝と業務提携契約を締結。STORYは『天気の子』『すずめの戸締まり』など東宝配給でヒット作を連発。『きみの色』もSTORY製作である。

山田尚子、1984年11月28日生まれの39歳。女性。アニメ演出家・監督、アニメーター。京都府生まれ。京都造形芸術大学美術工芸学科洋画コース卒業。2004年、京都アニメーションにアニメーターとして入社。2009年、若手ながらテレビアニメ『けいおん!』の監督に抜擢される。この作品は、東京アニメアワードやアニメーション神戸で優秀作品賞を受賞したほか、数々の社会現象を巻き起こす大ヒットを収める。2016年、長編映画監督3作目となる『映画 聲の形』が公開。現在の事務所契約などは無くフリーランス。

東宝の事実上の子会社であるアニメ製作会社のCEOである45歳のオッサン(過去にヒット作多数)と、これまでに3本だけアニメ長編映画の監督を務めた39歳の女性クリエイター。この二人の会議で「出てきた名前」がMr.Childrenだった、と川村元気は発言している。

それまでに既に東宝のヒットメイカーとして定評を確立していた川村元気は、2016年の『君の名は。』でそれまでややニッチ過ぎて爆発力に欠けた新海誠監督作品のプロデュースに入って、RADWIMPSを大胆に起用して、大衆性の高い作品作りに舵を切らせて一気に若者人気に火を付けて、新海誠を超ビッグネームに育て上げたという成功体験や自負を強く持っていると思われる。

そんな川村元気が、本作でも良かれと思って《若者に人気のアーティスト》を加えるべく、山田尚子監督に強く推薦(=ゴリ押し?)していた可能性は十分すぎるくらい考えられる。

改めて川村元気のインタビュー記事を読み返して欲しいが、なんか回答に責任の所在をぼかす意図があるようにも見えないだろうか?

「Mr.Childrenの名前は山田さんと話し合う中で出てきました」

▼ミスチルが採用された真の経緯は:

もし川村元気自身がミスチルの起用に絶対の自信があったなら、こんな言い訳がましい説明はしなかったとも個人的には思う。なぜちょっと自信が無くてもミスチルを採用して、キネマ旬報という有力メディアを使ってまでその言い訳(=火消し)をあらかじめ仕込んでおく状況に至ったのか?

これを推理するヒントになるのが、編曲者のインタビューである。

このインタビューを読んだ上で、改めてYouTubeで『in the pocket』のMVを観ると、たしかに冒頭の鐘の音はよく映画にマッチしてると感じる。

しかしこの記事の文章は、かなりオブラートに包んでいるが、編曲はとても難しかったという告白である。個性が強いアーティストの作品同士を違和感なく合体させるのは簡単なことではない。上層部の誰が決めたのかは知らないが、現場では苦労したんだよ!という編曲者の心の叫びがこのインタビュー記事には見え隠れしている。(笑)

そして注目すべきは、ミスチル側から声をかけたという事実である。山田尚子監督の前作『聲の形』のサントラを聴いて、ミスチル側から「自分たちの作品に取り入れたい」とオファーが来たと。

牛尾「メンバーの方が『聲の形』のサントラを聴いて、この世界観をMr.Childrenのサウンドに取り入れたいとオファーをくださったと聞いています。光栄な話です」

これが川村元気プロデューサーの視点で考えれば、まさに渡りに船だったのではないか?

「え?いいですけど、だったらウチの新作に曲かいてくださいよ?」

新海誠の『君の名は。』でRADWIMPSが跳ねたように、川村元気は山田尚子の最新作で同じような化学反応を起こしたくて、有力なミュージシャンを探していた時期。そこに、超大物で、しかも川村元気が中学生の頃から活躍しているレジェンドが、なんと向こうからやってきたのである。

新海誠とRADWIMPSはすごく上手く噛み合ったけどねー。Mr.Childrenは大御所すぎて扱いきれなかった感は正直ありそうだよねー。なんか超大物が『聲の形』をきっかけに声かけてくれたから舞い上がってポンポン話が進んじゃった結果なのではないか…大企業にありがちな《動き出したら止まれない巨大すぎるプロジェクト》になってしまった…と邪推してしまう。(笑)

ちなみに、論理的に考えると「ミスチルをゴリ押ししたのは山田尚子監督の方である」という仮説も立つが、これが正しい可能性は低いと思う。

なぜなら川村元気の方が発言権が強いと思われるからである。二人の実績を考慮すればわかる。もし二人の意見が食い違ったら、たぶん川村元気が勝つだろう。

そして実際に、キネマ旬報で火消しに走っているのが川村元気である。これは川村元気が発案者であり事実上の採決者なので、その責任をとっているものだと私は推測する。

▼ミスチルの歌がマッチしない理由:

さて。

ここから先の議論では、映画の結末に言及するので、未見の人は読まないで欲しい。

〜以下、ネタバレ警告〜

まずシンプルに、映画のメインストーリーは女性ティーンのボーカルだったのに、急にオッサンが出てきたのがくそミスマッチである。しかも54歳にもなって、いまだに若者っぽく歌うことを持ち味としている、永遠に大人になれない子供のような、桜井和寿じゃないと大衆に拒否されるキモイオッサンの声である。(暴言)

まあでも、桜井和寿だから許せてしまう人は多いだろう。そもそもそういうバンド名でやってる人達だしね。ミスターチルドレンって。(笑)

だから、一歩進めて、物語の内容に照らして考えてみる。

この映画は、ティーンエイジャーがバンド活動を通して自己実現しながら、でも最後にはきっぱりをバンドを諦める物語である。この潔さと寂しさこそが本作にリアルさと余韻を与えている。

『けいおん』のように高校を卒業してもバンドメンバーの集まりを続けたりしない。終わるものは終わる。これこそが、私が『きみの色』をけいおんの令和アップデート版だと評価する理由でもある。

現在(令和6年9月)の日本にとって『令和』というのはコロナ禍で幕を開けた時期であり、壮絶な自粛と隔離を経験して、私達の多くは続くと思っていたものが突然終わることや、特に10代の若者たちが一度きりの青春をとても不自由に送る理不尽を味わってきた。だからこそ、何かが強制終了される物語にシンパシーを持ちやすい。

しかし、その新鮮で今っぽい感傷や儚さに浸る観客に、不意に30年以上ポップミュージックの第一線で活躍してきた大成功者レジェンドアーティストの曲を叩きつけてくる。

全部、ぶち壊しだよ!(笑)

夢破れた若者、それでも人生を見つけて強く生きていく若者。彼らに寄り添う私の気持ちを邪魔しないで欲しい。

▼山田尚子監督の最後の抵抗とは:

私が山田尚子はミスチルの起用に消極的だったと考える要因がもう一つあって、それはポストクレジットのおまけ映像である。

1分にも満たない短いシーンだったと記憶しているが、そこでは主人公たち3人がラジカセに自分たちの演奏をテープ録音する様子が描かれていた。

3人の姿は描かれず、カメラは固定でテープが回転するラジカセだけを映している。向こうからトツ子たちの声が聴こえる。

「ちゃんと二つボタンが押してある?」

これはラジカセで録音するときに、再生ボタンと録音ボタンの二つを同時押しする必要があるからで、ちゃんと録音開始できてるか確認する会話である。

このご時世にスマホのボイスメモと大して変わらない録音クオリティのラジカセをわざわざ使うんかーい!と脳内でツッコミを入れつつも、改めてけいおんイズム溢れる演出に心がほっこりしたのだが、、、

なぜ、ポスクレにこんなシーンを入れたのか??

ここで、改めて川村元気の発言を読むと「今回はメタ構造になっていて、物語の中に主人公たちの素人バンドのライブがあるので、エンドロールのような作品の外側まで同じような音楽が流れたらハレーションを起こしてしまう。しかし主題歌をまったく違うタイプの曲にすれば、子どもたちの世界を大人の視点から眺めるという構造になる」とある。

なるほど、映画の本編が終わったので、エンドクレジットでは視点を変えて映画の外側の音楽を使いました、という主張は理解できる。

だったら、なぜにポスクレでもう一度視点を映画の内側に戻したのか?

外側から内側に視点を戻すことで、主題歌のスタンスがブレてしまう。

映画の外側に出て、エンドクレジットを流したら、そのまま終わる方が綺麗ではないか。

エンドクレジットが始まった時点で、映画の外側のオッサンの視点にされてしまったことに不満を持った観客(私を含む)は、エンドクレジットを観ないてさっさと帰るという選択肢があったのに、このポスクレのせいで我慢して最後まで観なきゃいけなくなってしまったぞ。(笑)

なぜ、こんな理不尽なことを?

ここから私が推測したのは、、、

何を隠そう、このポスクレ映像こそ、『きみの色』を自分の作品として取り戻すための山田尚子監督の最後の抵抗だったのではないか。

この作品は私のものだから、私の目線(内側)で終わらせるんじゃ!という山田尚子監督の意地のようなものを感じる。

このポスクレを許したことで、ミスチルのエンディング曲は川村元気が言ってるような「作品の外側」としての機能を大幅に失ってしまったようにも思う。そういう意味でも中途半端で、よくない采配だったね。

ちなみに、このnoteの最初に述べたように、私はミスチル曲の使用に反対の立場である。こんな「メタ構造」だの「外側の視点」だの、小賢しいことをしないで、映画の内側の世界だけで最後まで仕上げて欲しかった。

エンドクレジットが始まったら、暗転した画面でポスクレのあの会話を始めれば良いんだよ。そして、少し音質の悪い、主人公たち素人バンドの宅録バージョンが流れれば、それで良かったのに。

▼おまけ:

ウェイキペディアで山田尚子の音楽に関する記述を読んだけど、この人がミスチルに強い思い入れを持ってるとは、ちょっと考えにくい気がする。

山田尚子/音楽
「他にあまり趣味がない」と語るほど、音楽に対し思い入れが強い。
幼少期は姉の影響でチェッカーズを聴き、また音楽好きの母の影響で、レコードに触れ、ガゼボを口ずさむような子どもだった。そのような環境から、自然と80’sやフュージョン系を聞きながら成長する。思春期に入ってからは4つ打ちやテクノを知り、電気グルーヴをよく聴いていた。大学進学後、レコード屋に通うようになり、ニュー・ウェイヴやUKパンクへの興味を持ち始めていた頃、映画『24アワー・パーティー・ピープル』が公開。そのレビューを石野卓球がしていたことをきっかけに、80年代から遡って、70年代の音楽にもより関心を広げる。
楽器歴では、小さい頃はピアノを習っていた。高校時にはコピーバンドを、大学在学時にはギターとベースとドラムとKORG・Electribeの四人編成のバンドを組んでいた。また、音響専門誌『サウンド&レコーディング・マガジン』(リットーミュージック)の読者でもあった。

(了)

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