【ゴジラ-1.0】Twitterがアホな炎上してたのでまとめる
相変わらず愚かなツイッタランドだと思ったので、少し整理してみる。
▼みんなの反応:
これについたリプで「いいね」を多く集めている上位4つは…
この他にも同じような趣旨のリプが大量に付いている。
これらを見てリプが的確だと思った人は反省した方が良い。
元のツイートは、「登場人物が原爆について直接発言する描写がない」ことに不満を表明しただけである。
それを「原爆に関する描写がない」と曲解して愚弄する《真の意味で国語力が低いツイート》がすごく共感を集めてキャッキャされている。
何なら、そこに群がって最初の発言者を「理解力が低い」「こういう人達に合わせて台詞で全部説明するから日本映画がつまらなくなる」「寝てたんじゃないですかね」と罵詈雑言の嵐である。みっともない行為だ。いつものことではあるがツイッタランドの民度の低さには落胆してしまう。
わかりやすくするために改行を入れてみよう。
ほらね、最初の発言者は「映画に原爆に関する描写がない」なんて書いてない。「登場人物が台詞で言わない」と書いてるだけである。
まあ、改行を入れないと主語と述語・目的語の関係が曖昧で、誤読を招く余地がある文章だったことまでは認める。
しかし、逆に「10,000人以上のフォロワーを抱える映画感想アカウントの人物が、あの映画を観た上でゴジラが原爆のメタファーであることを見落すか」を考えれば、この修飾句が何にかかっているかは簡単に特定できるはずである。それを判らないのは、その読み手に読解力が無いと言う他ない。
もしかしたら、曲解リプをしてる人の中には最初の発言をきちんと理解した上で、悪意を持って、愚弄もしくは侮辱するためにわざと曲解している人も居るかもしれない。特にクロ助Zは「もしかして台詞で説明されないと理解できないタイプ?」と明らかに侮辱的・挑発的である。
少なくとも、こういう失礼なツイートに集まって喜んでいいねを押してる輩は本当のバカである可能性が高そうだと言えるだろう。
その程度の読解力では、たぶん大学入試センター試験(共通テスト)の国語で平均点を取れないだろうし、多くの職場で苦労するだろう。
あるいは自分よりバカな人間を見つけて、勝ち誇った気持ちになったり、マウントを取ったり、優越感に浸ることに飢えている人達なのかもしれない。そういう欲求や願望は「相手はすごくバカである」という誤解に繋がりやすい。
ちなみに国語のテストで例え話をしたので言及しておくと、上述したのぶとanorakcityのリプは、ごく単純な漢字変換ミスをしていて、老婆心ながら心配になった。(笑)
一応のぶは台詞の有無にフォーカスしているので正しく読解できているようだが、わざわざ「日本の戦争トラウマ」を3点にまとめて説教しているあたり、自説を披露したくてバズツイートに便乗してきた魂胆が透けて見えて、みっともない行為だと個人的には思う。リプライで異論をぶつけるなら「ゴジラそのものが原爆の暗喩なのだから役者が台詞で明言するのは無粋だと、監督は判断したんじゃないでしょうか」だけで目的には事足りる。
そして、この説教パートがあるせいで、「理解力が足りない人に説教している文章」を読んで気持ちよくなる人が集まって、ここまでいいね数が伸びたのだと推察できる。
▼日本語を読解できない日本人:
奇しくも10月19日にホリエモンがダイヤモンドオンラインで同じテーマのコラムを書いていたのを見つけた。以下、『「日本語は読めるけど理解できない人」はこんなに多い!情報弱者が大量生産される絶望的な事情』から引用する。
引用、終わり。
概ね納得できてしまう内容である。
今ここに書いてる私のnoteだって、本当に届けたい「愚かな読解や発言をする人達、またはバカと呼ぶべき輩」はもう大半が離脱していると思う。(苦笑)
更に私は、ホリエモンの言説に、先ほど書いた「自分よりバカな人間を見つけて、勝ち誇った気持ちになったり、マウントを取ったり、優越感に浸ることに飢えている」という感情論の仮説も付け加えたい。「10,000人のフォロワーが居るのにバカだぜ」って言いたいモチベーションが大きく関与している気がする。
私は、論理的読解は正しいレクチャーを受けて、トレーニングを積めば誰でも習得できる技術であると考えている。ただし時間がかかるし、ある程度若くて頭が柔らかいうちに訓練した方が良いという条件付きである。大人になってしまってからでは、社会学的にも生物学的にも難儀になる。
江戸時代ですでに確立していた「よみ・かき・そろばん」の本質は、論理的思考力を鍛えることである。しかし、明治維新以降に日本政府が実学を重んじるようになって百年以上が経過し、日本の教育では、その本来の目的に見合った教育を授ける能力を有する教師や講師が不足しているのだろうと感じる。
▼フェアな議論:
さて、話題を映画に戻そう。
最初の発言者はリプや引用でめちゃ叩かれてるけどさ…意見が異なるのは良いけど、相手を侮辱するような書き方は良くないよね。
…という失言した人達への批判だけで終わるのは卑怯だと感じるので、私自身の見解を述べておく。
私の感想としては、最初の発言者(背骨)に同意できる部分は大いにある。映画では、やたら饒舌な登場人物たちが、原爆の話題だけは無口を貫いて「察しろ」モードになるので、「なんだよ山崎監督逃げんなよー」とは私も思ったよ。基本的に私はダブスタが好きじゃないので。しかも吉岡秀隆はやたら綺麗事の正論ばかり言うのが余計に鼻に付くよね。(笑)
その上で、フェアに語ると;当時の日本はまだGHQ占領下だから、情報統制が厳しくて原爆のことを知らない人が多かったのかなとは思う。だから登場人物に広島長崎や放射能の恐怖について台詞で語らせるのは、リアリズムの観点から不可能なんじゃないかと。
ただ、その割には銀座破壊の直後にガイガーカウンター測定してたり、放射能汚染を伝えるラジオ放送があったり、細かな違和感は結構ある。この辺りの御都合主義は、気にすると止まらなくなる。(笑)
あと「俺たちの戦争が終わったと息巻いてる」の部分には大きな解釈違いがありそうに思える。「戦争が終わった」はあくまで「神木隆之介と青木崇高の二人が過去を清算できた」だけであって、別にその点について「息巻いて」いる人が居るようには、私には見えなかった。
ゴジラマイナスワンの登場人物のほぼ全員が、ゴジラが核実験の産物だとは知らないし、広島長崎の原爆投下も(GHQの情報統制がちゃんと機能していたなら)たぶん知らないし、放射能の恐怖も知らない。
だからゴジラを倒すことで、大東亜戦争での苦い記憶に何らかの決着をつけることが出来るのは、大戸島での呉爾羅による虐殺を経験した敷島と橘の二人だけである。
もちろん銀座で街を破壊されて30,000人が亡くなってるので、そこに怒りを感じて復讐のために海神作戦に参加した市民は居るとは思うが、それで「私にとっての大東亜戦争が終わった」という解釈にはならないでしょう。
そもそも、この映画でゴジラに戦争や原爆を仮託しているのは劇中の人物じゃなくて、観客側の話であるとも思う。
敬礼描写の記事でも書いたのだけど、ゴジラ映画は70年の歴史があるので観客が勝手に想いを乗せてしまい、映画に描いてある以上のことを読み取ったり、逆に読み取れないと不満を感じる部分があるのではないだろうか。これは最初の発言者(背骨)よりは、そこにリプや引用で反応した第三者に強く感じたポイントではあるが。
(了)