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(映画レビュー)新たなケアのあり方としては面白い?——金子由里奈監督『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』——

新宿武蔵野館にて,金子由里奈監督『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を見てきた。
ずっと見よう見ようとは思っていたのだが惰性により先延ばしにし続け,思い出したかのように劇場情報を見たら夜のちょうどいい時間にやっていたので。
新宿武蔵野館での公開は今日(2023年6月8日)までのようで,この文章が上がってすぐ読んでいるモノ好きな人がいれば,まだ間に合います。20:55開演です。


ざっくりな感想としては,クィアな考えを鑑賞者が持っているかどうかで感じ方が大きく変わる作品という印象。

女性というものに恋愛感情を抱けない七森(細田佳央太)は立命館(かと思われる)大学に入学し、オリエンテーションで顔見知りになった麦戸(駒井蓮)と、ぬいぐるみを作るサークルだという「ぬいぐるみサークル」を訪ねる。しかしそこは、ぬいぐるみにしゃべりかける人たちが集まるサークルだった。

登場人物たちの多くは、悩みを他者に打ち明けるということの暴力性を理解している。だからこそ相手は物言わぬぬいぐるみであり、サークル部屋内での会話はお互い聞かないように配慮する(そのためにイヤホンをするという鉄の掟を作るほど)。
ケアする側の負担が大きくなりがちなことを考えれば、こういうかたちのセラピー的な手法があってもいいだろう。だが劇中で七森が気づくように、ぬいぐるみとの閉じられた関係性の中で悩みを発散するだけでは、生きづらさを強いる社会のほうの変革は、残念ながら望みにくい。または白城(新谷ゆづみ)のように、強者に迎合しながら強く生きていくほかない。

生きづらさの原因は個人にあると見るのか、それとも社会の構造やルールのほうにあると見るのか。生きづらさを抱えつつも、それを克服して強くあらねばならないと見るのか、それとも「ただ在ること」に意味があると見るのか。私はどちらも後者の立場だが、この考え方のちがいによって本作から受ける影響(そして、評価も)は大きく異なるだろう。

また、ぬいぐるみとの関係性に閉じられていようともその「ただ在ること」が社会への変革のきっかけになると信じるのか、それとも残念ながらあまり意味はないと思うのか。アナーキストであれば前者でいるべきなのだろうが、私はまだ後者の立場でしかない。
少なくともこの作品からは、この社会の「変わらなさ」「どうしようもなさ」を再確認させることばばかりを受け取ってしまった。⁡
⁡⁡
⁡と,ここまで書いてきて今さら思ったのだが,この作品には希望が残されているような気がした。特に印象的なのはラストシーン,新たな春を迎えて新入生がぬいぐるみサークルに入ってきたところ。
サークル部屋内はぬいぐるみにあふれており,「普通」の人たちから見れば,基本的に違和感を抱かざるを得ない。またここまでに見てきたように,そこにいる人びとも「普通」からは外れた,変わり者がほとんどである。そうであれば,ぬいぐるみであふれた部屋も,ぬいぐるみにしゃべりかけている自分たちのすがたも,できるだけ外部の人に見せたくはないはずである。しかしラストシーン,新入生がサークルを訪ねてきたとき,その部屋の扉は閉められていない。また思い返してみれば,それまで以前のシーンでも部員がサークル部屋に入ってきたときに扉を閉める音は鳴っていなかった。もちろん,音がならないように閉めたという可能性もあるが,扉を閉める行為が映像としてカメラに収められていないのは確かである。
この,扉を開けたままにしておく,または扉を閉める行為を(おそらく意図的に)表現しないということは,何かの隠喩と捉えられないだろうか。つまり,先にぬいぐるみサークルのことを「閉じられた」空間として述べたが,しかしそこには同時に「開かれ」も望めるのではないか。残念ながらこれは,あくまで一筋の希望でしかない。しかしこのわずかな希望を信じるところから,アナーキーな革命は始まるのかもしれない。

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