日記(3/23)チームラボから考える学校教育の「境界」〜皆さんはどう考えますか?〜
おはようございます。ここ最近耳が痛くて、なんとなく耳をほじくっていたら大きな塊がでてきて感動のあまり涙がでてきたじゃこです。
#それでも耳の痛みは治まらない
さて、
大学院2年生もまじかに控える今日この頃。これといって数学に没頭しているわけでもなく、教育について、教師についていろいろと考えています。
そのいろいろと考える合間をぬって、そのとき興味があるものに手を出しては記事を読み、YouTubeを見漁り、その会社や人の理念や思考、チーム構成を調べている次第です。
なんといってもここ一カ月はチームラボに興味をもっています。
チームラボは、テクノロジーとアートの融合を魅せていて、境界とはなんぞや?といったところから境界のあいまいさを突き詰めていってる会社で、プログラマー、エンジニア、数学者、建築家、アニメーター、絵師など様々なスペシャリストから構成されているウルトラテクノロジスト集団でもあります。
テクノロジーとクリエイティブの境界はすでに曖昧になりつつあり、今後のこの傾向はさらに加速していくでしょう。そんな情報社会において、サイエンス・テクノロジー・デザイン・アートなどの境界を曖昧にしながら、『実験と革新』をテーマにものを創ることによって、もしくは、創るプロセスを通して、ものごとのソリューションを提供します。(株式会社チームラボHPより抜粋)
チームラボ代表の猪子寿之さんが語る「境界がなくなる世界」はすごく魅力的で、実際、福岡にあるチームラボ作品を観に行ったんですけど、鏡の使い方もそうだし、テクノロジー×アートってこんなにも凄く人を没入させるのかと感じました。
そこでですね、思ったことがあって、学校教育で「境界」をなくすことってできるのかなと。
学校教育で「境界」をなくすことができるのか、何が「境界」になっているのかを考えると、
一つは生徒と教師の関係性かなと。
「生徒と教師の関係性」の境界はというと、黒板や教科書、教材にあたります。教えられる・教える立場に分かれるからこそ生徒と教師に分かれる。子どもたちの関係でも、教科書やワーク、プリントを媒介とすると仮の生徒と教師という関係が生まれると思います。
でも、親から勉強を教えられるとき、親から何かを教わるときには親を教師だとは感じないでしょう。
となると、「生徒と教師の関係性」の境界は実は、学校や塾、寺子屋といった教育機関に収まったときに表出するものになるのではないでしょうか。
そういった箱の外に出ると、生徒と教師といった関係ではなく、師のように尊敬する人になるか、対等な関係になるか、無関係になるかのいずれかです。
こういった境界があるからこそ「学校は勉強をするところだ。それ以外で学ぶことはない」と感じる人が多くなってしまうんじゃないかと。
でも、学校といった境界はなくすことが難しく、教科書や教材といった境界もなくすことは非常に難しいと思います。
その辺に落ちている「石」ひとつとっても教材になり得るのですから。
僕は学校教育において「境界」を意識することは重要だと考えます。
生徒のためといって教師が頑張りすぎていないか。この仕事は教師がやらなくてもいいのではないか。といったことを気づけるきっかけになるからです。
僕自身まだまだ未熟者で現場にすら出たことがない大学院生ですが、考えに考えそれを実践し、現場に還元できることがあるのではないかと思っています。
今日はここまで!
今日がこれからの人生で一番若い日です!楽しみましょう!
ではでは!
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