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書くという行為で浮かび上がる 私の興味の対象 軍事と哲学 

生きていくということは、絶えまない自分との対話であるというのは、どこかで聞いたような名台詞である。さて最近書くことに快感を覚え始めた私はひとつ考える。書くという行為は己が己に問い続けなけば成立しない性質を持つ。自分が何が好きという、一見単純明快に思えることも、書くという行為のフィルターを通すと、なぜ好きなのかを書いている最中考えたり、それが自分のどういう性質から湧き出てきたことなのか、自分の性質と好きな分野の関係性は何だろう、どう書くことが頭の中のイメージと一番合致したものだろうと一人で面白くなる。

さてここでふと疑問が一つ。なぜ私の好きな分野は軍事と哲学なのだろうということである。家に軍事の名の付く書物や、哲学書がたくさんある環境に初めからいれば単純接触効果で好きになることもあるだろう。だが私が育った環境ではそんなもの一つなかったと記憶している。ではなぜこの二つの分野に惹かれることになったのかを、今日は自己分析してみよう。

哲学的な行為は自分の中で、軍事的なものの双対にある。計画、実行し、絶えず現実と自らが考えていることの距離を修正し続けなければならない軍事とは違って、哲学の営みは頭の中で完結せざるを得ない。現実と現実の間の共通項を掬い取り、抽象的な概念を抽出し、より一般化を目指す。現実的なものと空想的なもの。人間にはこの二つの要素が欠いてはならないことであって、その二つの性分が軍事と哲学に結びついているのだろう。

とりあえずの結論を出したが何故かとても違和感がある。聞き捨てならない異音がする。空想的で夢想的な哲学に対して私は失望を抱かざるを得ないという感情を抱いている。しかしながらそれにとても魅力を感じている。このアンビバレントで切実な感情は何なのだろう。

そもそも哲学は、現実に作用できない空想的で夢想的な知のあり方なのだろうか。実用的な学問ではないことは明らかであろう。だがしかし、いや、ちょっとまて。哲学は本当に実用的でないのだろうか。現に困難な状況にある私に、生きていくことの活力を与えてくれているではないか。世間的な価値体系を俯瞰する目を養うのには不可欠な要素ではなかったか。それはつまり、概念を解析、分析したり、創造することはかなり実学的なのではないか。私たちが生きている社会は近代以降の前提を基礎として成り立ってきたわけで。その前提の基礎であり、対立概念であり、批判するための力の源泉は哲学という知の在り方そのものではなかったのか。

話を意図的に逸らす。だが奇妙なかかわりのある話をする。最近読んだ現代哲学のレファレンス的な入門書で著者の仲正昌樹はこういった話をしていた。現代哲学が私たちが生きる上での参考書のような役割を果たすと考え出したのなら、一度とびっきり難解なテキストにぶち当たれと。私は彼のこのフレーズにのっぴきならない切実さと、絶対に心にとどめておかなければならない真理を感じ取った。皆さんはどうだろうか。

哲学を指針にすることが内包している危うさと、それでも哲学に人生を賭けたい自分とで揺れ動く。

書いていて気付いた。哲学をすることで、こうしてふわふわと宙に舞い、分裂し、蒸発しそうになる自分を軍事的なリアルによって押し固め、大地に戻す。軍事的なテキストに惹かれる理由が前より鮮明になり、わぞに満ちていた部分が少しは解明されたような気がする。

書くという営みを行わなければ、私の興味が軍事と哲学の二つの分野に偏りがちであることに、一体それがどういった意味を持つことになるかになど、何の意識も持たなかったであろう。書くことに向かってよかった。ただ誰かにメリットがあったかと言ったらそうではない。しかしとても愉快な、自分で自分を振り返ってみることの素晴らしさを実感している夜なのであった。

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