私はなぜ、哲学に惹かれるのか?
なぜ自分は哲学にここまで惹かれるのか。哲学に類する本を開いていると、たびたび自意識から問いかけられるこの謎は、私にとって、奇妙奇天烈な謎言語的概念を伴って、難解な論理をこれでもかと展開する哲学書と、同じかそれ以上に私の心をとらえて離さない、何とも奇妙な命題だ。
哲学書がそうさせるのか。自意識の声を聴くのはまさしくこの種類の本を開いている時で、これがまあ、何とも単純そうに見えるが、やたらとつかみどころのない、答えを提出しても、何かきちんと答えられたような気のしない奇妙な問いだ。
この問いの苦しいところは、回答を考えることに着手すると、なぜだが途端に萎えてきて、哲学すること、哲学書を読むこと自体のモチベーションを、一時的に下げるところにもある。
一時的といったところがまた味噌で、なぜかまた、今日も哲学書読みたくなってきたなと、それまでの気分の下がり幅を勢いにして、食事の前に空腹のスパイスを追加するように、それを自意識の中でカンフル剤として認識し、爆発的に意欲的になり、これまた謎の高揚感に包まれるのである。
なんだか、一人で考えて、一人で落ち込んで、一人で興奮して、内面空間が充実していますねと、自分に皮肉を言いたくなる。まあこれを書き終えたら、また私は哲学に向かっていくのだと思うが。
なんだか飽きてきたのでさっさと本題に入ろう。
私は今のところこの、なぜ哲学に惹かれるか問題に、二つほど、少しばかり方向性の違う回答が提出できるかなと考えている。
一つは、宗教を信仰するように、なにかしら自分を救ってくれる、導いてくれるものとして、哲学を見ているということ。
もう一つは、自分の生きるこの時代を、主体的に意味づけするためのとっかかりを探し求めて、その真理にたどり着くための訓練として、どうやら哲学をしようとしていること。
二つの方向性とのたまったが、なんだか一つのことを、二つの言い方に翻訳しているだけにも思えてきた。
疲れてきちゃったのでまた今度考える。
ぶつ切りするのはなんなんで、最後に何気なく図書館から借りてきた、東浩紀、郵便的不安達βに、このことに関するエッセイが載っていたのでこれを適当に記述する。
彼はこの問いに、自分は幼少期から文字に対するこだわりがあって、特に何を意味するか分からんような、言葉を解読するため、謎を解読するため、よくわからん単語に一種のフェチズム的欲求を感じてそれを満たすため、哲学に近づいて行ったんじゃないかということを書いている。
まあ詳しくはこの本を読んでくれ。
謎の解明に対する知的好奇心。文字に対するよくわからんフェチズム。ああ確かに自分にもこの要素がありそうだなと思いつつ、やっぱり哲学への道は一本ではないのかなと思う。
こうして自分を俯瞰してみるとやっぱり私は哲学に信仰を求めているなとも再確認する。あんまり現世でいいことを感じれいないことの、根源的なフラストレーションがモチベーションになってるのかな。
宗教にも実に強い関心があるが、なんでか今は哲学ばかり触っていることもまた不思議。信仰や救済と言ったら宗教のフィールドなのにね。自覚はしてるんだけど、宗教の物語に付き合いきれないような、そんなもん作り話じゃないと冷めた視線を思わず当てちゃうのよね。まあもうええか。
今後もこの問いは、私を掴んで離さないだろう。
そのたびに、私はその時いる場所からこの問いを考えるのである。
何か効用があるとかないとかは度外視にして。
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