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東浩紀のソルジェニーツィン試論が、わかったような、わかんようなで揺れ動いてるので書く

人は、書くという行為を経過することで、本当の意味での理解へと進んでいくことができると最近実感しだしたので、ふわっとした主体化されていない情報は、次々に書き出してみようと思う。

ソルジェニーツィンの文学作品は、卓越しているわけではない。小説というジャンルの持つ限界に対して、彼はそこまで自覚的でない。また、書くこと、話すことの不可避的政治性についても鈍感だった。彼は自分の発言が誤解される可能性に対して、東から見れば、驚くほど無自覚。

ラーゲリが、彼をそうさせたのか?
ソルジェニーツィンは、政治と文学の分割線を理解できなかった、分割線を引けなかった。だからこそ文学を作った。

彼にとってラーゲリはテーマではない。それを凌駕するような、決して理解できないような事実性として、彼の文学に生き続けている。
彼はラーゲリを理解できない。
彼の文学は、ラーゲリという事実、収容所群島の中で膨大な資料を列挙することで、かろうじてその輪郭をなぞることが可能だった。

ソルジェニーツィンの、そして当時の人々の経験は、解消不能のものだった。逮捕されるかされないか、10年の刑か25年の刑か殺されるのか、どこに何の罪でいつ送られるのか。ほぼ「確率的」に決められる。

彼らは、徹底的に受け身にならざるを得ないどころではない。
自らの運命について理由を問いただすことが無意味な境地。
そのような問いが、何の意味も持ちえないような境地。

そしてそれは「不条理」とも違う。
不条理には理由がある。人種、そこにいること。
支離滅裂であれ理由はあった。
遡行可能な教位。

それに対し、誰も問いを答えられないし、問いを立てる側も答えを期待していないような。
なぜという問いが禁止されてしまうような。
確率的な、道の分かれ目。
ある人は幸せに人生を全うし、ある人は処刑される、確率的な分かれ。

収容所群島に描かれている光景は単なる政治的抑圧の姿ではない
それはすでに政治的でもないし、悲劇的でもない
そのような判断は成立しない
ある人間が殺される側になり別の人間は殺す側になったが、それはいつ反転したかもしれない
それは良心の問題ではない
良心があるからと言って殺す側につかないかどうかわからない
そこでは主体や意志という概念が通用しない
意志を持つのは勝手だが、それは結果とは関係ないのだ

それでも なぜ という問いを発するとすれば
人は初めから非常に 根源的な問いを立てざるを得ない
そこでは根源的な問いと非根源的な問いの区別がすでに存在しない
つまり私の父はなぜ殺されたのかという問いは
初めから私の父はなぜ私の父であったのかという形で提出されてしまうのである 

収容所群島の世界においては 、人はそのような錯覚を許されない
問いは否応なしに根源的になってしまう
その時人は日常的世界と異なり
答えられないものと知りつつ 、答えを期待して虚しい根源的な問いを繰り返すか
もしくは すでに問いを立てることなく 運命 確率を甘受するか
そのどちらでしかないように見える
確かにそれ以外の可能性は考えられない

それを踏まえたうえで、ソルジェニーツィンが何を説くか。

しかし ソルジェニーチンはその収容所において 、別種の経験もしたように思われる
そして彼の文学はその 別種の可能性の周りをめぐり
常にそれを訴えようとしているように見えるのだ
その時彼は民衆という語を使う
もしくは 心 道徳 大地 誇りという語でも良い
それらの語を使うことで彼が問いかけようとしていることは決してナイーブな理想主義ではない
それは極限状態において 絶望的にしかなれないような思考のあり方 そのものを根源において 問おうとする作業だと言っていい
しかし彼はその思考のあり方は誤りだと言っているのではない
また彼自身 極限状態において 絶望的にならない 思考を身につけたわけでもない

ソルジェニーツィンが解いているのは 倫理 や道徳や犠牲ではない
そんなものが通用する 世界ではないのだ
彼は何が道徳的なのか 決定できないような世界での道徳的あり方の話をしている

 彼は驚いているのだ
収容所群島の中で何度も語られているように、そこでは何をすることが人のためなのかも 決定できない(例えば 尋問の場合)
しかしそれでもそこで 堕落しない人間がいる
ソルジェニーツィンはその驚異を語ろうとする時に、道徳的な あり方をせざるを得ない
僕たちはそれを僕たちの言う 道徳的なものとして受け取ってしまう
そしてその道徳性が非難されようが 収容されようがどちらにしろ
それについての思考の根源性は消去されてしまうのである 

どんな肉体的な行動によってでもなく
ただ嘘を拒否し 「個人的」に嘘に参加しないだけでいいのです
一人一人が自分の目で嘘を見いだす あらゆるところで
つまり 嘘を言われたり 書かされたり引用されたり 署名 させられたり
単に読まされたりする時に
嘘に協力することを断固として やめればいいのです

ソルジェニーツィンに対するタイム誌のインタビューにて

ソルジェニー ツインは「個人的」に という
そうとしか表現のしようがないのだ
嘘を拒否したからと言って報われるだけではない
他の人を救えるわけでもない  
それは全くの徒労であるのかもしれないし
帰って多くの人々を苦しめる結果に終わるのかもしれない
例えば自分の娘を人質に取られている時に、それでもあなたは偽の自白をしないだろうか
そしてその自白 において 数人の友人を告発することをも強要されていたとするならどうだろう
しかも 結局のところ あなたの行動がどう転ぶかは 尋問者の気まぐれに依存しているのだ
その時 嘘をつくべき かつくべきでないかという問題を立てるのはナンセンス なことに思える
実際そこで僕たちはどんな判断をすることもできない
例えばその状況をカフカの作品の情景と比較してみてもいい
そのなかで、嘘をつかないのは馬鹿げたことでしかない

ソルジェニーツィンは、素朴な人たちが、立場が変わったときに、どれだけの残酷さを示すことになるかよく知っている。

彼はロシアの民族=国民(ナロード)を強調するが
同時にその同じナロードがいかに信頼し得ないかということも知っている
彼の経験を見る限り知っていると考えざるを得ないのだ
僕はここで彼の経験という
ソルジェニーツィンの テキストは非根源的に読もうとすれば いくらでもそのように読めてしまう
口述するように
彼自身は自分の根源的な言葉が非根源的に読み取られてしまう
その差異、ラーゲルを体験していることとしていないこと の差異に
あまりにも鈍感であるように見える

イワンデニソーヴィチの1日にしろ
1914年8月にしろ
それらを文学的テクストとしてソルジェニーツィンから切り離して読み解くことは可能である
しかし そのようにして読むとき
僕たちはどうしても彼のテキストを非根源的に読んでしまう
口述するように 例えば カフカ の作品と異なり
ソルジェニーツィンの作品には
読者を根源的なものに向かわせる仕掛けが一切かけている
彼はそのような仕掛けが必要だなどとは全く思っていないのだ
そして まさに僕たちが考察しなければならないのは
このソルジェニーツィンにその仕掛けを不必要だ
というよりもおそらくは逆効果だと思わせた 何者か であった
それゆえ もし僕たちが ソルジェニーツィンの作品を
その本来性において 読もうとするのならば
ソルジェニーツィンという一つの事実性と作品を突き合わせ
その際において考えるしかない
その事実性はテクストの内部にあるのでも外部にあるのでもない
僕が先ほど経験と読んだ事実性は
いわば テキスト そのものを成立させている場であり
テキストが書かれたように事実性によってのみそこをされる 教位なのだ

収容所群島の世界において人は絶望的になるほかないように見える
ところが現実に おいては
人々はそれほど 絶望的ではない
事実として堕落しなかった人がいる

カラマーゾフの兄弟 もまた 基本的には同じ軌跡を巡って展開している

確率的に堕落しなかった人がいる

彼は確率的問題に対して具体的に答えようとしているのだ
彼の思考が前近代に退行してしまうかのように見えるのは
この地点でおいてである

確率的な問題とは、そうであったかもしれないが、そうでなかった
そうであったが、そうではなかったを問うこと

根源的であることが強いる分裂の緊張において 根源的な思考をすること

だがほぼ確実にソルジェニーツィンはそのような政治的文脈を考えていない彼は常に 根源的に語っている
しかし
自分の発言が 根源的に読まれないということに対して彼は鈍感である
というより 根源的に読まれないなどとは考えてもいないと言った方がいい それは彼が愚かだからではない
ソルジェニーツィンを そのような地点に追い込んでいったのが
ラーゲリという事実性 なのだ 

例えば同じように確率の位相を問おうとしていた作家として
カフカ はある意味で 僕たちの側にいると言える
彼は根源的と非根源的な教会を強く 意識している
それで彼の作品はその境界を拒否し
読者を解消 不能なものへと向かわせる
彼は僕たちの なぜ という問いかけを 自壊させてしまう
しかし ソルジェニーツィンにならば
そのような試みがいかにたやすく 囲われてしまうかと考えるだろう
彼の作品は容易に具体的でないものとして読まれてしまう
カフカ の作品における なぜ の崩壊はしばしば
ナチズムの問題や実存的孤独と関連付けられるが
そのように考えた時すでに
そこからはあの確率的な位相が抜け落ちてしまっている
前に述べたようにソルジェニーツィンが企図しているのは
境界がない地点において
なぜ という問題を立てることなのだ
それゆえ 彼の戦略は カフカの それとは全く異なった形を取るだろう
その戦略が僕たちには拙いものに見える
しかしそれだからこそ 彼に彼の問いの困難さと
彼と僕たちの間の決定的な断絶を伺うことができる
僕たちは確率を考えようとする時にカフカ的な方法を取らざるを得ない
おそらくはこれこそが ラーゲル にいないということなのである 

ラーゲリ というものに直面した時
ソルジェニーツィンが取った戦略は
それを根源的問題にしてしまわないことであった

「具体的なもの」の問いを立てない 思考は全体主義に対抗できない
しかし 同時にそのこだわりを思弁的に
つまりは今僕がここで行っているような形で述べてしまったのならば
それもまた根源的言説として 囲い込まれてしまうだろう
だからそこでソルジェニーツィンは  道徳的言説を選ぶことになる
具体的であり かつ 遡行的(非方法論的)であること

全体主義を批判するためには
全体主義 事態がはらみ持っているはずの
ある「奇跡(ナロード)」の痕跡を明らかにするしかない
それゆえソルジェニーツィンは
時折あたかも 全体主義を肯定するかのような発言を行ったりするのだ
ソルジェニーツィンが考えていた心はこのような思考の系譜をはらみ持っている 


以前にはそれでも私は
人生経験というものは国民から国民へ
個人から個人へ伝えることができると思っていましたが
今ではその考えに疑問を持ち始めています
誰でも全てを自分で経験することになっているのかもしれません
そうなって初めてわかるのかもしれません

インタビュー返答

ユークリッド的思考の徹底化において、非ユークリッド的思考へと続く道はない

人はまず つまずかなくてはならないのだ
ソルジェニーツィンは2つの世界の この関係を知っている
彼は奇跡などはないということにもかかわらず
まさに政治的世界の中にこそ
いわば 系譜学的に奇跡が見出されるであろうということを感じ取っている
だからこそ
それについては サハロフの政治的な立場に対し 不満を感じたのだ
そのユークリッドと非ユークリッドをつなぐ かすかな 痕跡 に遡行をすることによって しか 全体主義を批判することはできない
それゆえ ソルジェニーツィンの文学は常に
ユークリッド的世界(政治的言説)と非ユークリッド的世界(宗教的言説)の間を不安定に往復し続けるだろう
ソルジェニーツィンは奇跡を政治的に、政治を奇跡的に語るしかない
そして これこそが 彼の政治的文学的発言の滑稽さの理由 なのだ 

ユークリッドと非ユークリッドの間のかすかな 痕跡 に移行するためには 具体的なものから 確率的位相へと 思考をたどるしかないのだ

結局途中で力尽きて、引用の嵐になってしまった。これでは自分の身にして、自分の言葉で語ることはできていないのだ。自分の言葉で語ることができないということは、理解できていないということだ。物事は二つの言い方で言えなければ、理解できたとは言えない。提示された言葉を反復することができるというのは、理解したとは言えないのだ。

疲れた。

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