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なぜ生きているのだろう?生きている意味って何だろう?

一年に何回か考えること。生きている意味って何だろうと。というかなぜ私はこの問いを解こうとしているのだろう。なんで大した答えの出ない問いに時間を割くのだろう。いつもなら大概気分が落ち込んでいるときに自動的にこの問いに取り組んでいるような気がする。臨床心理学の本だったけか、精神医学の本だったかは忘れたが反芻というやつだ。だがなんか違う要素も挟まっている気もする。確かに落ち込んでいるときに見せる特徴的なあの行動思考セットは反芻とみていいだろう。だがそれだけではないのだ。このつかみどころのない宙ぶらりんを感じる世界で、ごまかしの効かない何かを、自分が導き出した何かを私は探してつかみたがっているのは確かだとこれを書いて思考している最中思った。

今の私が生きる意味は、私が生きる世界の正確な認識を知りたい、集められるだけの知識を集め、書き出せるのなら私がそれを書き出したいという欲望なのだろう。この一文を書き出した後に明確にわいてきたのはこの世界を語る言葉にはひとつ残らず・・・いやひとつ残らずは確実に言い過ぎているのだが、嘘というか、一切合切吐き出さずに情報を小出しにしている傾向だったり、物語を強調する形で私たちを必死に操作する傾向がある時代だということだ。まあ人間が人間である以上、他者を操作する必要は善悪を問わずあるのだが。

だからひたすら過去の哲学だったり、経済学や政治学、社会学そのほかもろもろの知識をひたすら集めているのだろう。(この正確な認識のためには知識を集める必要がありますよという私の認識すらも誰かのマーケティングの可能性は無きにしも非ずなのだが、そこを病的に突っ走っていける統合失調症的な熱意は私にはない。)とにかく正確性だ。正確な世界認識がしたいのだ。そのための学習がしたいのだ。

とまあ哲学者のようなことを言っているがしかし最近はめっきり本も読んでおらず、能動的なインターネットサーフィンもしていない。怠惰である。ただ怠惰やつでも最低限の言葉さえあれば思考はできるからこれがいい。思考は無料である。いくら考えてもイイのである。

結局のところ時間が有り余っているからそれをつぶすために年に何回か考えるのであろう。暇をつぶすための行動なのだこれは。悪くはない。それどころかなんだか知らんがいい気分になった。腹の調子はすこぶる良くないが、気分がとてもはるばるとした日曜の深夜であった。

以下は考えをそのまま出力したためどこに組み込めばいいかわからなかった文章。

まず考えている今の状況によってネガティブに考えやすかったり、逆にフルポジティブみたいな、躁の現実的にはあり得ないが気分がやたらとよくなるような思考をすることもあるよね。その時その状況の異なる立場からの解釈だから毎回若干の変化がある。その変化を楽しんでいるのだろうか?別に楽しくはない・・・いや楽しいかもしれない。微妙である。


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