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全訳トム・ケニオン「The Myth, the Hero and the Lie (神話、英雄、そして嘘)」

 ハトホルのチャネラーであり、サウンドヒーラー、エリクソン催眠療法家のトム・ケニオンの記事の全訳をお届けします。

 私たちの無意識の地下通路に住まう神話が、いかに目に見える世界に、大きな影響を与えるかを、二つの症例研究を踏まえながら考察しています。

 "神話には力があることを、どの社会も本能的に知っています。国家の危機(戦争)の際には、社会はすぐに自分たちを、心(mind)の中のヒーローに仕立て上げます。自分たちに反対する者は悪者になる。また、文化がファシスト化し始めると、国の政策や文化的態度について知的な疑問を投げかけただけで、人々は悪者扱いされます。"

 これは遠い世界の話ではなく、まさに今、起きていることではないでしょうか。

 人間は、意識によってだけでなく、無意識的な働きによっても動かされる存在です。

 無意識の働きに自覚的であれば、人生をより創造的・建設的な形にしていけますが、それに気づかず、眠り込んでしまえば――まさに「眠れる羊」――、逆にそれに操られ、非合理的な行動をしてしまうこともあります。

 思慮と理性があれば、自分の健康・生命を害することをしないはずですが、それをしてしまうのは、思慮や理性よりも、無意識の力が大きすぎるのかもしれません。

 非常に長いので(約1万7千字)、休みを入れつつ、お読みください。

 きっと、人間の心についての理解と気づきを得られることと思われます。

 最後に、「短い実習:自分の影を受け入れる」というのがあります(目次から飛べるようにしてあります)。

 「影の側面を意識的な自己に統合するための、迅速で簡単な方法」とトムが言うように、とても簡単で、誰でもできる方法が紹介されています。

 ここまで簡単な方法は、他にないのではないかと思われます。

 ヘッダー画像はなかなかいいのが見つかりませんでした。私にとっての「英雄」の一人である、「アサシンクリード2」の主人公エツィオ・アウディトーレ・ダ・フィレンツェを持ってきました。彼が生きていた時代のヨーロッパもまた、現代のように「善が崖っぷちに立っていた」時代です。


トム・ケニオン
「The Myth, the Hero and the Lie (神話、英雄、そして嘘)」

翻訳者:jacob_truth 翻訳完了日:2021/09/03(金)

原文:

 学部時代にカール・ユング博士の元型論の研究に出会って以来、「生ける神話(living myth)」という概念に長年興味を抱いてきました。生ける神話という概念は、物質主義社会に生きる多くの人々にとって異質なものです。多くの人々にとって、神話は別の時代の想像上の物語であり、現代にはあまり関係がないように思われます。しかし、生ける神話は、私たちの心の奥底で作られます。そして、それは、生きていて、強い心理的な力を持っています。生ける神話は、私たちの無意識の地下通路にしか存在しませんが、それにもかかわらず、私たちの外的世界に、非常に直接的な影響を与えます。

 これらの神話的な領域は、ほとんどの場合、私たちの地下世界の影の霧の中に、見えないように住んでいます。しかし、時折、彼らは、自分自身を忘れてしまうようなベールを突き破って、私たちの意識の日常世界に着地することがあります。フットボールの試合で最後のタッチダウンに駆けつけた若者や、集団ヒステリーで立ち上がった群衆は、突然、英雄の神話に突き進みます。自分の子供を危険から救う母親は、一瞬、ヒロインになります。

 神話には力があることを、どの社会も本能的に知っています。国家の危機(戦争)の際には、社会はすぐに自分たちを、心(mind)の中のヒーローに仕立て上げます。自分たちに反対する者は悪者になる。また、文化がファシスト化し始めると、国の政策や文化的態度について知的な疑問を投げかけただけで、人々は悪者扱いされます。

 このパターンは、あらゆる歴史の中で明らかに、嫌になるほど繰り返されており、現在の世界的な危機も例外ではありません。

 しかし、世界の状況がどれほど手に負えないように見えても、基本的には個人の靈的・心理的・社会経済的な選択がその燃料となっています。個人の選択が変われば、世界情勢にもすぐに変化が現れるでしょう。だからこそ、私は「個人」に注目して議論したいのです。

 私たちがここで一緒に進むのは、長い奇妙な道のりです。私たちは、精神病、精神疾患、創造的な輝き、靈的な照明の土地を旅します。願わくば、その過程で、私たち自身の人生に役立つような洞察を得たいものです。また、今、私たちが直面している並外れた心理的・靈的な挑戦に役立つ何らかの洞察を、他の人の経験から見出すことができるかもしれません。

マドンナ
 何年も前のある日、私はカリフォルニアの同僚から必死の電話を受けました。彼の9日間の集中講座に参加した後、精神的に参ってしまった彼の生徒を診てほしいというのです。彼女は夫と一緒にフロリダ州南部に住んでいて、二人とも私に会いたがっていました。彼女の夫によると、あの(集中講座での)出来事以来、彼女の様子がおかしいと言うのです。彼女の家族は、もし彼女がすぐに改善しなければ、私の同僚と彼の研究所に対して法的措置を取ると、さりげなくほのめかしていました。

 週末に会う約束をして、彼らはある土曜日の早朝、ノースカロライナ州チャペルヒルにある、私のオフィスにやってきました。最初の2時間で私がしたことは、起こったことの来歴を書き留めることでした。

 「事実は小説よりも奇なり」という言葉がありますが、この場合は間違いなく、それは真実だと言えるでしょう。

 ミッジ(仮名)は、カリフォルニアで行われた私の仲間の、9日間の自己成長集中講座に参加しました。集中的な心理音響学的な脳への刺激の結果、彼女は大きな神秘体験をしました。

 8日目には、イエスの母マリアが自分を愛で包んでくれているのをはっきりと感じたと言います。そして最終日、彼女自身がこの愛に満ちたエネルギー場に拡大していくのを感じた時、ミッジは消滅し、代わりにマドンナであるマリアが現れました。

 この至福の状態で、彼女は人々を祝福して回りました。そして、何人かの人は、彼女の前で実際にヒーリングを体験しました。このことは、後に、カリフォルニアにいる私の同僚が証明してくれました。

 恍惚とした気持ちのまま、マドンナことミッジは帰りの空港までタクシーで送られていきました。帰りの飛行機の中で、彼女は何か読み物を探そうとして、ニューススタンドに立ち寄りました。「ローリングストーン誌」の表紙からは、別人のような「マドンナ」の目が彼女を見上げていました。自分の名前が掲載されているのを見て、彼女はその雑誌を購入し、待合室でマドンナの記事を読みました。もちろん、「ロックの女王」と呼ばれるマドンナは、彼女が没頭していたマドンナとは全く異なる存在秩序にあります。

 彼女の心境は示唆に富むものでした。ミッジは、イエスの母からロックンロールの女王へと、自己のアイデンティティーを変えたのです。彼女はもはやイエスの母ではなく、目立たないように旅をするロックスターだったのです。

 彼女は何事もなく飛行機に乗り込みました。しかし、約3万フィート(約9200キロ)の上空で、彼女は翼の上に悪魔を見ました。彼女はスパイクヒールを脱ぎ捨て、窓を叩いて壊そうとしました。客室乗務員に制止された彼女は、「悪魔から飛行機を守るためには、翼の上に出なければならない」と叫んで、客室乗務員を罵倒しました。

 飛行機が着陸すると、彼女は警察に付き添われて近くの精神病院に行き、薬で妄想が治まるまで数週間入院しました。

 私のところに来た時には、1ヶ月ほど症状が出ていませんでした。しかし、パートナーによると、「イライラしていて、自分らしくない」ということでした。

 3回目の訪問時、ミッジは非常に動揺していました。どうしたのかと尋ねると、彼女は10年以上前に犯したある行為を告白しました。

 夫の実家が家具店を経営していたようで、彼女は従業員として働くことになりました。彼女はこの仕事が嫌いでした。また、他の従業員は皆、大家族の一員でした。ある夜、彼女はこっそりと店に戻り、火をつけました。燃えてしまったので、家族は再建しないことにしました。彼女は状況を打開する方法を見つけましたが、その罪悪感は10年もの間、彼女を苦しめていました。私は、彼女の夫が口を開けて座っていたのを覚えています。驚いたことに、彼はあまり動揺しているようには見えませんでした。

 最後の訪問では、ミッジはとてもリラックスしていて、彼女と彼女の夫は放火について和解しているように見えました。数ヵ月後、彼女を訪ねてみると、それ以上のエピソードや妄想はありませんでした。彼女にとって、全ては過去のものになっていたのです。

神話の力
 トランスパーソナルな観点から言えば、ミッジは体験の初期段階で、神話的あるいは元型的な意識領域に入ったと言えるでしょう。確かに、自己成長に関わる人が神秘体験をすることは珍しくありません。これは、そのようなワークが行われている状況によって生み出されている部分もあると思います。そして、その多くは脳の化学反応によるものだと思われます。

 世界中の聖人たちや神秘家たちが報告した神秘体験をざっと見てみると、文化や伝統に大きな違いがあるにもかかわらず、明確な共通点があることがわかります。これらの共通点の多くは、時間感覚と空間感覚の変化、そしてエクスタシーや至福の高次の状態を含む、その他の知覚の変化と関係しています。これらの変化は全て、脳内の化学物質と生理学の明確な変化を示しています。

 大脳の生理は、心(mind)を映す鏡のようなものです。それは、起きていることを反映し、またその逆もあります。生理機能に変化が起こると、それに応じて、しばしば、知覚や経験にも変化が起こります。このような観点から、古代の靈的実践の多くは、大脳の生理を変化させ、それによって知覚や経験を変えるローテクな方法であると考えることができます。

 最後に、私は、神話的領域は人間の本質的な部分であると考えています。人が自分の心(mind)の奥深くに入っていくと、やがて神話的存在や元型的存在に出会うことになります。ある種の内的ワークや、ある種の脳への刺激は、この内部の神話的領域を明らかにします。私は、ミッジにはこれが起こったのだと思います。

 イエスの母であるマリアとの接触は、神話的な存在領域(=愛に満ちた普遍的な女性性)との真の接触でありました。しかし、ミッジは自分自身の感覚が弱かったために(つまり、自我の維持が不充分だったために)、神話的領域との接触を維持することができず、むしろそれに飲み込まれてしまったのです。これは、神話的次元に近づく時の本当の危険です。

 彼らは実物よりも大きく、しばしば非常に強力なエネルギーや存在感を持っているため、彼らに飲み込まれてしまいがちです。神話の世界に触れる時には、両足を地に着けておくことをお勧めします。

 さらに事態を複雑にしているのは、ミッジには10年以上も自分を苦しめている暗い秘密があったことです。放火にまつわる罪悪感や心理的葛藤は、彼女の個人的なアイデンティティーが解消されると、逆巻くクジラのように表面に押し寄せてきました。

 ロックスターのマドンナについての記事を読んだ時に、ミッジがアイデンティティーを変えたという事実は、彼女の一般的な心理的不安定さと、強い自我的アイデンティティーの欠如を示しています。

 「自我(ego)」という用語は、心理学の世界では、多くの靈的サークルとは異なる意味合いを持っています。心理学的には、「自我」とは単に「私は私である」という感覚のことです。自我は、基準となる中心点であり、心理的健康には欠かせないものです。

 私は心理療法家として、靈性(spirituality)の名の下に、自分のエゴをぶつけることは、非常に非建設的であり、時には危険であると考えています。

 問題は、自我そのものではありません。自我とは、自分のアイデンティティーのことです。ミッジが無傷の自我を持っていたら、施設に入る必要はなかったのではないかと思われます。

 しかし、彼女は強い自我意識を持っていなかったので、神話的なものに吸収されやすい環境にありました。彼女にとってアイデンティティーの変更は、心理的牢獄からの解放でした。しかし、問題は、彼女が牢獄から解放されたわけでも、仮釈放されたわけでもないことでした。彼女は結局のところ、自分の燃えるような秘密と折り合いをつけていなかったです。そして、精神は一種の内的な正義を要求します。彼女が夫に対して行為を認め、夫が彼女を許して初めて、彼女は人生を再構築することができたのです。

 とはいえ、彼女の困難は、彼女の自我によって引き起こされたのではありません。それでは、車の温度計がエンジンの温度上昇を警告するのを非難するようなものです。どちらもメカニズムなのです。自我とは、意識(あるいはマインド)のメカニズムです。その唯一の目的は、人生の無数の経験を、自分自身のアイデンティティーの感覚を持ってナビゲートすることです。

 もし、ミッジが強い自我的アイデンティティーを持っていたら、マリアとの出会いは違ったものになっていたでしょう。そのような存在との出会いがもたらす祝福を、個人的な葛藤の歪みなしに受け取ることができたでしょう。彼女に強い自我があれば、マリアとの体験が終わった時に、自分自身の感覚を取り戻すことができたでしょう。しかし、彼女にはそれがなかったので、自分を心理的な中心に戻すものがありませんでした。

 神秘家たちが恍惚の境地に達した時の心理状態を見ると、個人的なアイデンティティーから神話的なものへの移行がはっきりとわかります。

 アッシジの聖フランシスコやアヴィラの聖テレサなど、他の神秘家たちの記録を読むと、彼らはしばしば神秘的な出会いに完全に没頭していたことがわかります。天国に行っている間は、自分という感覚が消えていたのです。「地上に戻る」ようになって初めて自己感覚が戻ってきたのです。

 これを、ヨギやヨギーニ(女性ヨギ)によるサマディ(ヨガ的トランス状態)の報告と比較してみると、同じことがわかります。

 より強烈なサマディの形態では、自己を完全に喪失します。対象のない純粋意識だけが存在し、しばしばエクスタシーや至福の感覚を伴います。サンスクリット語では、これを「サット・チット・アーナンダ(sat chit ananda)」と呼びます。「サット」は「存在」、「チット」は「意識」、「アーナンダ」は「至福」を意味します。ヨギの視点では、「自己(the Self)」の真の姿は、意識と至福の両方なのです。

 20代の頃、私は一連の個人的な実験を行いました。そこで、ヒンドゥー教、仏教、道教、秘教的キリスト教など、様々な宗教的伝統の神秘的な技術を探求しました。これらの実験は、全て同じ結果をもたらしました。つまり、一時的に自己を喪失したり、エクスタシーと至福の世界に、自己を拡大したりしたのです。

 しかし、「気づき」や「至福」は人間の本質の一部であるにもかかわらず、私たちが受け継いできた、あるいは自ら作り出してきた心理的な葛藤もまた同様にそうなのです。

 ミッジの精神は、これまでの放火や臆病な行為に、何年もの間、悩まされ、ずっと乱れていました。自己のアイデンティティーが溶解し、神話の世界と接触した後、その葛藤は想像上の悪魔の形で表面化したのです。夫に自分の行為を告白し、許してもらった結果、彼女は心の安定を取り戻し、人生を続けられるようになりました。

アーサー王とランスロット卿
 彼の母親は、私が働いていた健康センターに電話をかけてきて、20歳の息子に会うことに同意してくれるかと尋ねてきました。彼は精神科の施設に入院していて、彼女によると、何もしてくれないとのことでした。

 彼は精神病を患っていると診断されていました。また、強い薬を飲んでいるにもかかわらず、よく眠れない状態でした。私は、必要に応じて他の医療専門家を呼び寄せることができるなら、彼を診てもいいと言いました。彼の母親も同意してくれました。

 私がドン(仮名)に会った時、彼は依然として、ものすごく眠れない状態でした。彼の睡眠時間は短く、平均して、1~2時間程度でした。これでは、心身の健康に必要な深い休息サイクルに入ることができません。

 本人も母親も服薬を望んでいなかったので、鍼灸師のスタッフを入れました。毎日のセッションの前に、ドンは鍼灸治療を受けます。順番が逆になることもありましたが、どのセッションでもやることは同じで、彼をリラックスさせることでした。

 数回のセッションの後、彼の睡眠は改善され始めました。そして数週間後には、薬なしで約6時間の睡眠が取れるようになりました。このような睡眠パターンの改善に伴い、彼の症状の多くは、予想通り後退しました。

 しかし、彼のセラピーの内容は、何年経っても、私にとって最も興味深いものです。

 ドンの問題は、幻覚剤を混ぜたスピード(訳注1:麻薬)を飲んだ時に始まったと思われます。彼は躁状態に陥り、非常に注意力が高く、非常にクリエイティブな状態になりました。(彼は芸術家だったので)この創造性の高い時期は、薬の効果が切れた後も、数週間続きました。その後、反社会的な行動を伴う妄想が始まりました。入浴をしなくなり、自分自身に危険を及ぼすようになったのです。

 しかし、ドンの内部での体験は、世間に見せているものとは大きく異なっていました。心(mind)の中では、ドンは、アーサー王に変身した神話の世界に迷い込んでいたのです。

 彼は最も崇高な探求をしていましたが、周囲の誰もそれを知りませんでした。彼は、失われた騎士たちを探していたのです。彼らは地の果てに散らばっていました。そして、彼の仕事は、彼らを見つけて円卓に連れ戻すことでした。そうすれば彼は休むことができるのです。

 初めて会った時、彼はまるで下手なシェークスピア俳優のように、とても大げさな、型にはまった話し方をしていました。そしてまた、最初の時から、彼は自分のことを本当に、伝説のアーサー王だと思っていることが明らかになりました。

 私がはっきりと覚えているのは、「その瞬間」です。「その瞬間」とは、セラピーにおいて、クライアントがセラピストを味方として認識したり、受け入れたりする瞬間のことです。私は、ドンが騎士を見つけられずに悩んでいるのを延々と聞いていたのですが、思い切ってやってみました。私は椅子の前に身を乗り出し、彼が使っていた話し方に似たスタイルで、「私は、あなたのためにいるのです」と言ったのです。

 具体的には、「私はあなたのためにここにいるのです、我が領主よ。(I am here for you, my liege)」と言いました。

 彼は私の目を直接見て、「ランスロット卿...あなたです...あなたです!」と言い、そこで泣き崩れてしまいました。

 私は彼に、私は確かに彼を守るために存在していること、そして彼を危険から導く方法を見つけ出すことを伝えました。私たちは握手を交わしました。そして、彼は、神話の海に迷い込んだ若い男性である自分と、人間関係の世界に根ざしながらも、神話の嵐の中で手を差し伸べた年長の味方である私との関係を築いたのです。その時から、ワークは深い元型的な側面を持つようになりました。そして、ドンと過ごした6週間で、元型的領域の力について、大学で学ぶ以上に学びました。

 実際、私は彼とのセッションを楽しみにしていました。なぜなら、彼はとてもウィットに富んだ賢い人だったからです。セラピールームを歩き回る彼の口からは、まるでロウソクから滴り落ちる暖かいロウのように、ダジャレが飛び出してきました。意識や宇宙の仕組みについての彼の複雑な説明は、見事としか言いようがありません。私は興味をそそられました。

 しかし、問題もありました。彼は、その輝きとは裏腹に、深い痛みを抱えていました。その表情には、日夜の戦いの緊張感がにじみ出ていました。

 ドンは、王子が、自分の心理的な王国の正当な支配者(王)になろうと努力する、古典的な神話的闘争に巻き込まれていました。

 ほとんどの人は、この神話的な対立が無意識の中だけで行われ、例えば、息子が自分の母親や父親にノーと言うような稀な場合を除いて、行動に移すことは滅多にありません。

 しかし、ドンは完全に神話の世界に入り込んでおり、その葛藤は意識的にも行動においても演じられていました。象徴的なレベルでは、ドンの、失われた騎士の探索は、実際には自分自身の失われた部分、つまり幼少期に抑圧された心理的自己の部分や側面を探すことでした。

 ドンのセラピーの課題の一つは、威圧的で要求の多い父親との葛藤を解決することでした。これらの問題が解決されるに連れ、ドンは神話的な現実から徐々に抜け出し、再び人間世界の一部となっていきました。しかし、いくつかのトレードオフがありました。

 非常に鋭い洞察力と警戒心が弱まっていました。彼は、神話的な出会いの時のように賢くはありませんでした。しかし、彼は寝て、食べていました。仕事もできるし、自分の狂気に周りを巻き込むこともありませんでした。

 私はドン以来、同じように神話の世界の混乱と、時には爽快な効果に巻き込まれた多くの人々と、ワークをしてきました。

 私は、意図的に(つまり、靈的実践を通して、あるいは、靈的な緊急事態のように意図せずに)神話の領域に入る私たちは、皆、同じような課題を共有していると信じています。

 その目的は、神話の世界に留まることではありませんが、そうすることは非常に魅力的です。むしろ、自分や自分のサンガ(靈的共同体)にとって有益な洞察やエネルギーを、人間の領域に戻すことです。そうすれば、私たちはバランスを保つことができます。私の道教の先生はいつも言っていました、「片足は天に、片足は地に」と。

 ところで、ドンは他のエピソードを持たずにアートの世界に再参入し、かなりの成功を収めています。

神話と英雄
 私たちのほとんどは、ミッジやドンのような激しい心理的葛藤を経験することはありません。しかし、自分の神話的側面にどう対処するかによって、全ての人が影響を受けるのです。

 ある特定の方法で世界を見て行動しなければならないという微妙なプレッシャーがあったり、なかったりする靈的サークルでは、特にこれは真実です。

 例えば、靈的な生活を送ろうとする人の多くは、何としても平和であろうとします。彼らのライフスタイルは、アヒンサー(他の存在に対する非暴力)を中心としています。このような倫理観を持つと、必然的に精神的な緊張が生まれます。

 一つは、私たち人間は、多くの相反する心理的な力の混合物であるということです。人間関係の中では、自然な攻撃性が生まれるものです。「自然な攻撃性(natural aggression)」というのは、単に自分の境界線を侵された時の適切な反応という意味です。アヒンサーを実践している人が、他人が何かを盗んだり、悪質な噂を流したりしているのを見つければ、当然、怒りの考えや衝動が生まれます。怒りは悪いものではありません。それが破壊的なものになるかどうかは、その怒りをどう扱うかで決まります。

 しかし、アヒンサー(非暴力)の実践者にとって、非暴力の神話的なアイデンティティー(つまり、決して害を与えない霊的存在)に執着していると、これは問題になります。他人の首をへし折ったり、少なくとも悪口を言ったりしたいと自分で認めることは、非常に不愉快なことです。しかし、(たとえ考えの中だけであっても)自分の暴力性を受け入れることは、靈的に成熟し、真の靈的成長を遂げるための前提条件なのです。

 それにもかかわらず、中には自分の中に生まれた自然な攻撃性を認めない人もいます。言わば、絨毯の下にゴミを掃いて見えないようにしようとするのです。あたかも、このような感情を持っていないかのように装うのです。しかし、(スピリチュアリティを装って)感情を否定することは、妄想であり、真の靈的達成にとって破壊的です。また、それは、基本的な心理的健康にも悪影響を及ぼします。

 靈的修養に努め、アヒンサーのような態度を取ることは、確かに賞賛に値します。しかし、この理想を使って、自分自身の一部(つまり、自分自身の自然な攻撃性や、「否定的な考え」)を否定すると、非常に厄介な状況に陥ります。その理由は、イギリス人のクリケット仲間が言うように、「ヒーローとヒロインのパラドックス」にあります。

 いいですか、神話の領域は人生よりも大きいのです。そこは、神々と女神の住処です。人間を凌駕する巨人や巨大なエネルギーの住処でもあります。私たちが元型や神話の領域からの生き生きとした存在と接触する時、私たちはしばしばエネルギーで満たされます。

 このような靈力は、活力やインスピレーションを与えてくれるものであり、靈的な自己進化の道を歩む人にとっては、実際に必要不可欠なものでもあります。しかし、自分の他の部分を排除して、神話的なものに過度に同一化してしまうと、ある種の否定をしていることになり、これは悲惨なことになります。

 この出来事は、奇妙な皮肉です。例えば、ある人がキリストや仏陀のような偉大な師の靈的現前と力に感銘を受けたとします。キリストや仏陀のように、意識を高めて生きることを決断するのは、本質的には、英雄的な行為です。

 そして、その選択の行為によって、人は靈的なヒーローやヒロインに変身します。

 英雄だと感じることは一つのことです。世界でそう生きることは別のことです。そして、ここにこそ問題が生じる可能性があるのです。ヒーローやヒロインに過度に同化してしまうと、ヒロイックではない考えや感情に邪魔されてしまうのです。

 先ほど申し上げたように、私たちの中には、様々な考えや感情が混在しています。しかし、常に、何があっても、靈的なヒーローやヒロインでありたいと思っている人は、靈的ではない考えや感情を否定せざるを得ないでしょう。

見知らぬ同居人
 ノースカロライナ大学グリーンズボロ校での最終学年、私は他の学生たちと一緒に、古い荒廃した家に住んでいて、それぞれが部屋を取っていました。どういうわけか、私は巨大なダイニングルームか、あるいはボールルームに住むことになったのです。とにかく、天井の高い大きな部屋でした。巨大な部屋の片隅には、キリスト教、仏教、ヒンドゥー教の聖人たちの写真が飾られた小さな祭壇が置かれていました。祭壇の前の床には小さな祈りの敷物が敷かれていて、私はそこで瞑想やヨガをしていました。周りはきれいに整頓されていました。この神聖な空間で、私はサーダナ(靈的修養)を行っていたのです。

 その部屋の他の片隅で、私は貧しい学生生活を送っていました。使い古されたマットレスと洗濯が必要なシーツが壁際に置かれていました。床には、本の山、食べかけの皿、洗っていない服の山が散乱していました。埃が積乱雲のように舞っていました。

 ある日、同じ大学に通う友人が、コンサートのために私を迎えに来てくれました。ドアをノックする音が聞こえました。私はドアを開けて彼を招き入れました。彼は私の生活環境を知りませんでした。そして、部屋を、ちらりと見回しました。彼はたった3つの言葉を発しただけでした。「誰と暮らしているんだい?」

 私は唖然としました。私は新しい目で自室を見回しました。片隅には聖人志望の若者が家を作っていました。もう片方の隅には、無精者がいました。この二人は私の中にいました。ある意味では、私の人生の次の20年は、この二人を一つにしようとする試みだったのかもしれません。

 私がこの話をしたのは、確かに恥ずかしいことではあるのですが、否認の仕組みを示す美しい例だと思うからです。

 私は自分の部屋の中に、そして自分の精神の中に、全く異なる2つの生活空間を設定していました。片方は神聖な空間で、もう片方は不敬とまではいかないまでも、世俗的な空間でした。「聖なる空間」にいる時は、靈的な感情を持ち、向かいの床にいる無精者には気がつきませんでした。というか、気づいても気づかないふりをしていました。しかし、実際には、無精者と聖者になりたい人との間で、多くの戦いがありました。

 靈的な私は、朝5時に起きたいと思っていました。どこかで読んだのですが、これはヨギが瞑想するのに最適な時間だそうです。しかし、無精者は朝9時からの授業に出るのがやっとでした。

 この綱引きは何年も続きました。今では、起きる時は起き、瞑想する時は瞑想しています。この2つの争いは、ほとんどなくなりました。その理由の1つは、結局、私が諦めて、無精者を聖職に就かせたからだと思います。

 ここで私が言いたいのは、靈的な理想を掲げる時(それがどんなに高尚なものであっても)、そこには、本当の意味での危険があるということです。その危険とは、悪い考えや感情(もちろん、悪いというのは、靈的な理想にそぐわないものを意味します)から自分自身を切り離そうとすることです。この致命的なミスを犯してしまうと、私たちは自分自身を二極化してしまいます。

 すると、とても奇妙なことが起こります。私たちは嘘の生活を始めるようになります。

 私たちは、嘘の生活をしようとしたわけではありません。私たちは真実を追い求めていました。私たちは、靈的な人生を送り、靈的なヒーローやヒロインになろうと決めていました。しかし、靈的なヒーロー/ヒロインのイメージや理想に同一化してしまうという致命的なミスを犯してしまいました。

 この不幸な選択の結果、私たちはもはや靈的生活を送っていません。靈的生活のイメージを生きているのです。この二つは全く異なります。

 私たちは、ネガティブな思考や感情が発生すると、心が乱れます。それは、本当に嫌なことです。なぜなら、ネガティブな思考や感情は絶えず私たちの心に現れているからです。ネガティブな思考や感情は、暗雲のように過ぎ去り、空虚に溶けていきます(全てのものがそうです)。しかし、このような感情を自然なものとして受け入れ、心を通わせる代わりに、靈的に良くない考えや感情が生じると、動揺してしまいます。そうなると、「影(the shadow)」と呼ばれる最も困難な心理状態に陥る可能性が出てきます。

 影(the shadow)とは、私たちが意識しないようにしている無意識の部分です。大抵の場合、自分がそこに置いたものを受け入れるのがあまりにも難しいために、それをないものとして装います。しかし、ここにはもっと陰湿なことが起こり得ます。自分自身のネガティブな要素(自分の靈的なイメージにそぐわないもの)の発生を受け入れるのを拒絶すると、それと戦うことを選択してしまう可能性があるのです。

 私たちは、受け入れられないものを悪魔化しました。そして、そのネガティブな要素を隠したり、抑圧したりするためにあらゆる努力をします。心理的な葛藤が充分に強くなると、自分の選んだ靈的な理想にそぐわないと思われる他人を攻撃するようになります。私たちは、魔女狩りや宗教裁判のような、一種の「靈的ファシズム(Spiritual Fascism)」を生み出します。

 21世紀の今、私たちがこのような文化的狂気と無縁であるとは一瞬たりとも思わないで下さい。夕方のニュースは、文化的・政治的・靈的なファシズムの別の波が世界で成長していることを示す手がかりに満ちています。

 そして、私たち一人一人が、お互いに、そして自分の中の神話にどう対処するかによって、この波が最終的にどれだけ大きく、破壊的なものになるかが決まるのです。

 カール・ユングは亡くなる直前に言いました。「人類(mankind)は自分の影と向き合い、それと和解しなければなりません。この巨大な心理的・靈的課題を達成できなければ、影が私たちを破壊することになるでしょう」と(訳注2:翻訳の違いか、これに該当する文章を見つけることはできなかった。ただ、これに近い考えを述べていると思われる二冊の本を挙げておく。
アニエラ・ヤッフェ編『ユング自伝2』みすず書房、1973、p,176-180
ユング『現在と未来』平凡社ライブラリー、1996に収録された「現代史に寄せて」「影との戦い」)。

 今こそ、私たちは自分自身と世界に対して、より広い靈的な視点を持つべきなのかもしれません。私たちの未来は、おそらく、それにかかっているでしょう。


短い実習:自分の影を受け入れる

 ここでは、「自己統合プロセス(the Self-Integrating Process)」と呼ばれる方法で、影の側面を意識的な自己に統合するための、迅速で簡単な方法をお伝えしたいと思います。このようなワークを行う理由は、多方面にあります。一つは、自分の内なる二極化の罠(自分自身との戦い)を避けることができます。もう一つは、靈的ファシズムの罠から逃れられることです(これは非常に良いことです)。三つ目は、自分の中の閉じ込められた部分が解放されるので、実際にエネルギーレベルが上がります。

 心理的に何かを抑えるにはエネルギーが必要だということを忘れないで下さい。

 しかし、プロセスそのものに入る前に、いくつかのポイントを御紹介したいと思います。

 まず、抑圧された影の質料は、しばしば存在や実体に似た状態に合体します。自分の影の質料と、あたかも意識存在のようにコミュニケーションすることができるのです。

 次に、自分の影を受け入れることは、必ずしもその行動を受け入れることを意味しません(例えば、タバコを止めたい場合、タバコを乱用する原因となっている自分の影の質料を受け入れることは、喫煙を受け入れることを意味しません)。しかし、タバコを吸いたいと思っている自分の一部を受け入れることには意味があります。

 例えば、タバコを吸う理由は様々です。ある人は、アメリカ先住民の儀式のように、精霊に捧げる儀式として使用します。また、感情を抑えるために吸う人もいます。全てはあなたの意図に関係しています。

 怒りや興奮を抑えたい時には、毛細血管を収縮させる作用のあるタバコを使うことがあります。血流が悪くなることで、一時的に興奮が収まったり、減少したりすることがあるのです。では、あなたがこのような人だとしましょう。ここでは、a)実際に火をつけるという行動と、b)火をつけたいという欲求の2つがあります。火をつけたいという欲求は、特定の感情が生じることに不快感を覚えているあなたの一部から来ています。この部分は、これらの感情を自分の影の領域に、自己認識の光の外に置いておこうと最善を尽くしています。そしてそれは、あなたが、あるレベルでこれらの感情を否認することを選んだからです。これを行動に移す(例:タバコを手に取る)部分は犯人ではありません。それは、あなたがしたいと望むことをしようとしているだけです。つまり、どんなに奇怪な行動であろうと、その行動を起こしている部分は、何らかの形であなたを気遣おうとしているのです。

 これらの部分は、一種の自律的な心理的生命を持っています。彼らは、私たちの一面として受け入れられたいと願いながらも、私たちが彼らを拒絶するのではないかと恐れています。これには理由があります。彼らは私たちに頼まれたことをやっているだけなのに(つまり、私たちが受け入れられないと思う思考や感情を抑制しているだけなのに)、私たちには、彼らを厭わしく思う傾向があるのです。

 心理的な部分を受け入れると、その行動に縛られてしまうのではないかという恐れが、私たちにはあります。真実は、ある部分を自分の一面として受け入れることで、心理的なエネルギーが解放され、意識が拡大するのです。そうすることで、自分にとってより良い創造的な選択ができる可能性が高まります。自己受容の行為によってある心理的な部分を自分の中に組み入れる(再結合する)と、エンドルフィンなどの健康に関連する神経伝達物質が自然に放出されます。

:これは、自己統合プロセスに関して、私が長年にわたって行ってきた理論的な観察です。今のところ、これを実証した研究はありません。しかし、このプロセスを終えた後、人々は常に健康と完全性の向上を感じていると報告しています。従って、それに応じた生理学的な変化があるのではないかと推測しています。今後の研究でこの仮説が証明されるか否かはわかりません。しかし、原因が何であれ、このプロセスを経た後、人々はより良く、より自分自身につながっていると感じます。

自己統合プロセス
 違和感が生じた時は、素材が意識の表面に出ているので、このプロセスを行う上で理想的なタイミングです。しかし、行動を変えたいと思った時にも、このプロセスを行うことができます。

 これにはいくつかのステップがあります。

 このプロセスが他の多くの自己療法的なエクササイズと異なるのは、内容がないことです。私たちは、なぜ「それ」をするのかという物語に興味はありませんし、「それ」の歴史にも興味はありません。私たちはただ、自分自身の一面として、その部分(「それ」の責任者)を認めるだけなのです。

 その目的は、潜在意識と意識の間に気づきの橋を架けること、つまり、心理的に意識が高くなるようにすることに他なりません。

1. まず、気が動転した時に、その部分が体のどこにあるのかを確認します。奇妙に思えるかもしれませんが、その部分は体のどこかに集中しています。場合によっては、体の周りのエネルギー領域に存在することもあります。この部分は、体の他の部分とは違う感じがするでしょう。その部分の周りに感情的なエネルギーが多くある場合は激変する感じがするかもしれません。あるいは、周りに何もない場合は微細に感じるかもしれません。しかし、その部分が存在するところには、必ず何らかの物理的な感覚があります。

2. 次に、自分の体のこの部分に意識を向け、その部分を自分の一面として受け入れることを(心の中で静かに)伝えます。これだけです。その部分があなたを信じれば、その部分から感覚の言葉で反応があるでしょう。つまり、どこかがリラックスしたり、解放されたり、統合されたりするのを感じるでしょう。あなたは、それを意図しなければなりません。部分を騙して逃げることはできません。部分は、あなたが嘘をついているか、急ごしらえをしようとしているかを知っていて、それを嫌がります。

 重要な点をおさらいしましょう。あなたは部分の行動を受け入れることを、その部分に伝えていません。あなたは単に、それを受け入れると言っているだけなのです。それは(あなたが好むと好まざるとにかかわらず)存在しています。そして、あなたはそれが存在すること、そしてそれがあなたの一部であることを認めているだけなのです。

3. 自分が困難を覚えている特定の部分を受け入れると、それを好まない他の部分があることがあります。これらの部分には、通常、現状を維持しようという意図があります。中には、物事が変化することを、はっきりと嫌う部分もあります。例えば、あなたが心理的に健康になることを嫌う部分もあるでしょう。まるでサーカスをしているような気分になってきませんか?そう……あなたも、そして私たちのほとんどもそうなのです。

 全ての部分が多かれ少なかれ機能する良いショーと、混沌としたショーの違いを生むのは、リングマスターです。そして、あなたはもちろん、あなた自身のサーカスのリングマスターなのです。

 ある者はピエロ、ある者は空中ブランコ、ある者は野生動物の調教、ある者は観客席の後ろの影でこそこそ歩くスリ。そこには全てのメンバーが揃っています。

 そして、サーカスメンバーの一人を認めると、他のメンバーと争うことになるかもしれません。その方法は、実際、とても簡単です。自分自身の中で何が起きても、それを自分の一面として受け入れることを、それに伝えます。私は、最終的な解決感や統合感を得るために、最大9つの部分を扱う必要があった人を知っています。

 このプロセスでは、これまで拒絶されていた部分を受け入れることで、自分自身の全体性をより強く感じられるようになります。また、先ほど申し上げたように、心理的なエネルギーや意識も高まります。

 このプロセスは、通常、問題を解決するものではありません。しかし、心理的なエネルギーと意識を高めることで、問題がより少なくなります。

要約
 無意識の影から自分の一部を取り出すことで、自分をより完全なものにすることは、"holy"の語源が「完全にする」という意味であるように、聖なる行為です。

 私たちの集合的な影と折り合いをつけることが必須であると言うカール・ユングに、私は同意します。そして、このような心理的な試みは、今の私たちにできる最も神聖な仕事の一つかもしれません。

 あなた自身の啓蒙の光と、あなた自身のハートの思いやりが、あなたが自分の全体性を追求する際のガイドとなりますように。


訳者補足
 冒頭、トムはこう述べています。

 “世界の状況がどれほど手に負えないように見えても、基本的には個人の靈的・心理的・社会経済的な選択がその燃料となっています。個人の選択が変われば、世界情勢にもすぐに変化が現れるでしょう。だからこそ、私は「個人」に注目して議論したいのです。”

 「個人」に注目するという姿勢は、『現在と未来』に書いてあるように、ユングが時代の狂気と向き合った時と全く同じ態度です。

 自分の個人としてのパワー、そして、集団や数ではなく、個としての他者を認めるところから、トムやユングのセラピーは始まっています。

 それは、この記事だけでなく、他のトムの記事やハトホルの記事にも一貫してある視座です。

 個としての自分に無力さを覚える時、私はいつも、このトムやハトホル、ユングの姿勢を思い出します。

 彼らが、個あるいは個人の力に希望や信頼を寄せていなかったら、彼らはこんな態度を取っていなかったでしょう。また特にユングは、医者として、時代の狂気を冷静に見据える「魂の癒し人」として、多くの働きをすることはできなかったでしょう。

 狂気は、様々な姿を取りますが、「数」と「集団」というのがよくある形でしょう。

 そして、それは、今の時代にも、強く見られるものです。

 また、神話やヒーロー&ヒロインの旅と、自己実現・心理探究の関係を、より具体的な形で辿りたいという方には、キャロル・ピアソン(監訳:鏡リュウジ、訳:鈴木彩織)『英雄の旅 12のアーキタイプを知り、人生と世界を変える』実務教育出版(2013)をお勧めします。

 分厚い書物ですが、自分の内なる12のアーキタイプ(元型)と人生を重ねて見ることで、自分への気づき・理解を深めることができる、啓発的な本です。

 たとえワークをやらなくても、書かれたことを踏まえて人生を振り返ると、多様な気づきを得られることと思われます。


トムの心理学的考察記事


以前の翻訳記事はこちらをご覧下さい。


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