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「紫式部と藤原道長って実際どういう関係性?」という疑問に答えます

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学校の勉強や受験勉強、趣味で歴史の勉強をしていると、「何でこうなるの?」と疑問に思うことがよくあると思います。私は高校の時に日本史を選択し、受験では日本史の共通テストを解き、大学に入ってからも歴検一級の日本史にを受検するなど、長きに渡って日本史という科目と対峙してきましたが、勉強するなかで疑問は山のように積みあがっていきました。

今回は私が抱いた数ある疑問のなかの一つについて調べ、できるだけ簡潔にわかりやすく解説をできればと思います。暗記さえすればテストは乗り越えられるかもしれないけど、疑問に思ったことを追求してはじめて、日本史のおもしろさや奥深さに気付けると思います。

本日の疑問

今回は「紫式部と藤原道長って実際どういう関係性?」という疑問について話します。

大河ドラマの視聴者なら誰もが気になる二人の関係性。ドラマでは幼い頃から何回も逢瀬を重ね、恋仲になっていますが、実際の史実ではどうなのでしょうか?

平安時代の藤原氏の全盛期を築き上げ、思いのままに政治や天皇を操った天才貴族・藤原道長。宮中に仕えながら1000年後にも伝わる名作「源氏物語」を書いた天才作家・紫式部。同じ時代を生きた二人の天才は一体どのような関係だったのか見ていきます。

こういう人に読んでほしい

・紫式部や源氏物語、清少納言や枕草子に興味のある方
・紫式部、清少納言、二人の偉人の関係性について詳しく知りたい方
・日本史に関して新たな教養を身につけたい方
・大河ドラマを観ている方


そもそも紫式部と藤原道長ってどんな人

この二人の名前を知っていても、どういう人なのか、どういう生涯を送ったのかは意外と知られていないかもしれません。ここでは紫式部・藤原道長の二人の人生の概略、日本史を勉強していなくても大河ドラマを観たことがなくても分かるように解説します。

・紫式部
 藤原為時の娘として生まれ、幼い頃から漢文に対する才能を発揮する。藤原宣孝と結婚するが、夫に死別された後道長の娘・彰子の女房として宮仕えするようになる。また、宮仕えしている間に長編小説「源氏物語」を書き上げて天皇に献上をするなど、文学の才能を宮中で遺憾なく発揮した。また、彼女が書いた日記は「紫式部日記」として現在まで残っている。平安時代を代表する女流作家で、源氏物語は世界中で広く読まれている。

・藤原道長
 藤原兼家の5男として生まれ、兄の死などにより藤原家の当主となって絶大な政治権力を握る。天皇に4人の娘を嫁がせ、その息子を次の天皇とし、天皇の祖父となった道長は摂政・内覧・太政大臣などの役職について思いのままに天皇と国内の政治を動かし、息子の頼通とともに摂関政治の全盛期を築いた。

二人はどういう関係性?

早速疑問に答えていきましょう。

1000年前のことなので、はっきり言って正確な返答はできませんし、人によって見解は異なるかと思います。しかし確実に言えるのは紫式部と藤原道長はかなり近い関係にあって、恋仲にあったとしてもさほど不思議ではないと思います。

ここからは二人の関わりが記されている史料などを基にその関係性を紐解いていきましょう。

関わりその1:和歌の贈答

紫式部は宮中で道長の娘で一条天皇の后だった彰子の家庭教師的存在でしたから、二人が頻繁に関わるのも不思議ではありません。紫式部日記にも、道長と会うシーンが多くあり、今回はその中でも印象的な二人の和歌のやり取りをご紹介します。

和歌のやりとり
藤原道長
「すきものと 名にしたてれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ」
「あなたは好色者との評判が高いので、見かけた人は口説かずに放っておく人はいないと思います」
紫式部
「人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ
「誰にもまだ靡いたことはないのに、いったい誰がわたしを好色者だと言いふらしたのでしょうか」

紫式部日記(源氏物語について)

紫式部が書いた源氏物語を手に取った道長が、女好きな主人公光源氏に紫式部をなぞらえて口にした冗談を交えた一句、とそれに対する紫式部の少し返答。今だとセクハラで一発アウトの道長の発言ですが、こういうキツイいじりを日頃からできるとすれば、かなり仲は良かったのかもしれません。

他にも日記のなかでは道長と和歌を詠みあったり、会話をするシーンは幾つもあり、かなり仲は良かったと考えられます。また、紫式部は道長のことを格好良いと言っていたり、道長が夜に紫式部の寝床を訪れているなど、お互いに多少の好意を持っていたことを示唆する言動はあり、親密な関係だったのは間違いないでしょう。ただし、それが単なる気の合う友人関係だったのか、恋愛にまで発展したのか、これだけでは分かりません。

関わりその2:室町時代の記述

大河ドラマでそう描かれているように、藤原道長と紫式部が愛人関係だったという説は昔からあります。その直接的な根拠としてしばしば挙げられるのが室町時代に作られた「尊卑文脈」の中にある記述です。ここでは紫式部の人物紹介で、「御堂関白道長公妾云々」つまり道長の妻の一人だったと書かれています。

もちろん、これは二人が生きた数百年後に書かれた書物で、この記述が正しいかどうかは分かりませんが、少なくともそのように考えていた人は室町時代にもいたようです。

まとめ

歴史ではいつものことかもしれませんが、紫式部と藤原道長の関係について、結局真相は分からないままです。なのであまり納得のいかない結論かもしれませんが、それはそれで一人一人の解釈が分かれて面白いと思います。

そして、大河ドラマは史実を多少基にしながらも独自の視点で二人の関係と生涯を描いているので、それを観て色々と当時のことを考えるのも楽しいのではないでしょうか。

参考文献


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