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「行方不明者の捜索」で重なる事

今読み終えて、いろんな思いが渦巻いている。烏賀陽弘道さんの渾身の記事。何か言い出したら、もう止まらなくなってしまいそうだ。が。今は「感想」を言うより、これだけは、と思う事を書いておきたい。

それは、私の父(1910〜85、写真)の前妻さんの事だ。話はすごく昔に遡る。私自身「後妻の子」だし、その人とは結局1度しかお会いした事はない(その時の事も書けば長くなるけれど今はやめておく)。実は、申し訳ないけれど名前ももう覚えてはいない。年齢も、父とそんなに離れていなかったのだろうけれど、私は正確には知らない。
その人は、1945(昭和20)年6月19〜20日にかけて襲われた「静岡大空襲」(又はその前後のいずれかの空襲)の最中に、行方不明になってしまったのだ。
父と前妻さんには3人の子、つまり私にとっては「腹違いの兄達と姉」がいる。その3人から、少しずつ聞いた断片的な話をまとめると、概ねこんな顛末だった。まだ断片だけど。
空襲があって、近所の安倍川の河原に避難して、その最中に兄姉達の母親は行方不明になってしまった。父が捜索願を出した。が、1年経っても見つからなかった。父はもうどこかで亡くなってしまったのだろう、と葬式を出した。子ども達もそう思っていた。
ところが、約10年ほど経った頃(正確な時期は聞いていない)、どういう経緯か、実は見知らぬ土地で生きていた、という事がわかったのだ。
遠く離れた、縁もゆかりも無い茨城県の、確か「筑波郡桜村」といったかな?そこで暮らしていた。
なぜそんな遠く離れたところに行ってしまったのか、わからない。
1982年に46歳で亡くなった長兄も1人で会いに行ったらしいけれど、今生きている次兄(82)と姉(78)は2人で会いに行ったのだそうだ。
私の印象に残っているのは、次兄は「お母さんと再会できる!」と感動したそうなのだけれど、姉は自分の母に向かって「あんたなんか母親じゃない!」とぶちまけたのだそうだ。家族でいちばん年下だったのに、姉はただ1人「女手だから」という理由で小学生の頃から家事のほとんどを切り盛りしていたらしい。その苦労は、私には到底想像もできない。

父の「前妻さんの行方不明」の話は、私が知っている限りでこのくらいだ。
きっと、生きている次兄と姉に聞けば名前とか生没年とか、もっと詳しい経緯とか聞けるかもしれない。…が、今はとてもそこまでする気にはなれない。
烏賀陽さんが書かれた木村紀夫さんのご家族のお話を読んでいるうちに、何故か「自分の家族」(といっても関係性がやや微妙ではあるけれど)の事を思い出してしまったのは、もしかしたら、津波から避難する木村さんと戻って逃げきれなかった汐凪さんやお祖父様、お母様の事と、空襲の中で死の間際を逃げ惑った父と前妻さん、兄姉達、更に空襲で重傷を負って亡くなった祖母の事とを重ねて、全て私にとって伝聞でしかない出来事への想像を更に補おうとしたのかもしれない。
木村さんのお話の具体的なところにこちらで触れる事はしないでおくけれど、もしかしたら空襲の当時34歳だった父も木村さんと同じような思いを抱いたのだろうか、と思ったりもした。

取り急ぎ、多分この「連想」にはいつでも思い出せるような必然性はない(というか必然性以上に他人に起きた出来事を自分の家族に勝手に重ね合わせる、というのも正直あまり気持ちの良い事ではないでしょう?)ので、後になったら忘れてしまうかもしれない、と思って、今、あえて書き残しておく。
プロの烏賀陽さんと違ってふわふわした書き方しかできないのは、どうかご容赦を。というより、烏賀陽さんの記事の方を、是非多くの人に読んでもらいたい。


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