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わかりやすさから一歩先へ

芸術やあらゆる表現・コンテンツに対する個人的見解である。わかりにくさがあったほうが面白い。

芸術として、誰にでもわかるように作れば確かにそれは売れるのかもしれないし、多くの人に見てもらえるものになるのかもしれない。作品に込められたメッセージというものを言語化するにも苦労しない。

特にビジネスの世界や、仕事、あらゆるコミュニケーションにおいて、人々は「理解できない」ことを目を背けがちである。とにかくわかりやすく素早く伝わることが求められやすい。それが効率・生産性につながりやすいからである。わかりやすい言葉、表現によって、課題やニーズがシンプルな共通イメージで顕在化され、そこにサービスやモノが生まれていく。ビジネスというのはそういうものだと思っている。

しかし、人間というものはそう人間が作ったようなシンプルな構造ではできていない。目に見えるもの、ないしはその心理面などでは、一概に簡単に言い表すことはできない。16タイプ性格診断がいい例である。世の中には、バラエティ目的で、たくさんの各タイプの性格をわかりやすく言い当てるような記事が多いように思う。しかし、実際同じタイプの人が、わかりやすいレベルでどこまで具体的に共通点を持っているかはたかが知れているように思う。そのアドバイスにしても、書くタイプ全員に当てはまるようなアドバイスは作れないと思っている。作れたとしても、限界がある。

しかし、人間というものはそう人間が作ったようなシンプルな構造ではできていない。目に見えるもの、ないしはその心理面などでは、一概に簡単に言い表すことはできない。16タイプ性格診断がいい例である。世の中には、バラエティ目的で、たくさんの各タイプの性格をわかりやすく言い当てるような記事が多いように思う。しかし、実際同じタイプの人が、わかりやすいレベルでどこまで具体的に共通点を持っているかはたかが知れているように思う。そのアドバイスにしても、書くタイプ全員に当てはまるようなアドバイスは作れないと思っている。作れたとしても、限界がある。

そのわかりやすさコミュニケーションから一歩進んでみるときに、「わかりやすさ」よりも「真正」にこだわる表現こそ、芸術の価値ではないかと思う。単なる静物を書いたり、人のありふれた世界を描く。別の方法でも表現する。その美しいながらも「わかりにくさ」「理解しきれない」側面を持って、人々に想像の余地を与える。正解は与えない。正解にたどり着く人はいないだろうが、正解に近いものをそこから読み取る人も出てくるのではないかと思う。

こうしたコミュニケーションが、単なる芸術としてでなく、社会と融合した芸術として、社会に取り入れられることによって、人々のコミュニケーションがさらに深さを増すことができるんじゃないかと思っている。

現代アートには、社会への課題感や、昔からの風刺画など、社会に近い表現をしているものもあり、ある意味で芸術の社会融合のいい例であると思う。しかし、ただ「わかりやすさ」に傾いてしまえば、その作品の表現する世界はだれでも言語で表せる範囲に終始してしまう。その広がりが持てない作品では、そこから想像を掻き立てる面白みがないのである。

あらゆる芸術や表現によって、そのヒトのみが行きついている感性が広がった世界として表現され、それを鑑賞した人々により、想像が広がっていく。そういう意味では、ただただ芸術的価値が高いものにカネを払う、だけではなくて、芸術的に表現をしながら社会を作っていく、そんな活動を個人的にしていきたい。

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