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「普通」な人も、「大人」もいない。

 一般的に、発達障害という言葉が意味するところについては、「普通の人より、ある心理・精神・頭脳の機能・能力の発達が遅れている、あるいは発達しきっていない」というニュアンスで言われていると思う。「普通の人」という存在は、非常に曖昧だが、例えばIQテストやアンガーマネジメントなど、テストで数値化し、ある一定の水準を下回れば、「発達障害」と認める要因となりうるので、特定の能力が他人よりある程度低い、ということであると思う。また、「大人の発達障害」という言葉も言われているが、「大人であればたいてい持っている能力が発達しきっていない」という意味を持つように思う。生きづらさに関しても、「社会」「普通の人たち」に対して、適応する難易度が高いとされるため、「生き辛い」という言葉になっていると思う。
 ここでいう、「普通の人」「大人」とは、「生きづらくない」あるいは、「発達障害ではない」など、否定条件はあれど、非常に曖昧に思う。20歳を過ぎれば大人じゃないか、と思う人もいるかもしれないが、成人年齢が20歳であったころの考え方であるように思うし、「成人」とは各国法律で定められているが、成人していない人に対しても、「大人っぽい」「大人だ」というような言い方もあるので、ここでは「成人」と「大人」を分けて考えたい。「大人」という言葉のほうがより形容的、概念的であるようだ。
 アダルトチルドレン、毒親という言葉が指すように、「大人」という概念的な条件に合わない人たちも、その存在が明らかになっているように思う。私たちが幼いころ見ていた、周囲の両親や大人も、同じくらいの年齢を迎えて考えてみれば、同様に未熟であったことに気づくのは、大半の人が体験することであろう。ここでも、「大人」という言葉について、現実とは異なった理想像が付与しているように感じる。

 最近では、「生きづらさ」を発見したり、あるいは訴えたりする人が増えてきているので、それに対する「普通」の難しさ、貴重さが目に見えているような気がする。また、日本に限った話ではないと思われるが、「見えない貧困」「所得格差」「中間層の減少」など、経済的な面においても、「普通」以上に到達することは、単なる人一人の努力では簡単には覆せない、非常に難しい状況となっており、そのことも以前に増して注目されてきている。非常に個人的な私の所管だが、10年ほど前までは、世の中の大半の人が「普通」で人生が終わり、「これからも普通でありたい」と考える人と、「普通ではないことをしたい」という考えを持つ、二通りの子どもが多かったのではないかと思う。そのころよりも、今となっては、今までの「普通」は本当に「普通」だったのか、あるいは「普通」とはそもそもなんだったのか、社会的に疑問がわいてきているように思う。

 こうして考えてみると、いま現在において、さらに言うと今までも、「普通」も「大人」もないのではないか、と思う。確かに、経済的な面で言えば、所得の中間層にあたる人たちが該当すると考えることもできよう。しかし、人々が思い浮かべる「普通」の生活というのは、もっと主観的なものではないだろうか。昭和時代の価値観で言えば、家庭をもつ、家やマンションを購入する。そして、女性は専業主婦で子供たちの世話も行い、休日には家族ででかける。こうした暮らしができるのは、本当に所得の中間層であろうか。そうではないというのがよく言説であがる。
 また、「生きづらさ」についても、生きづらくない人々を「普通」とした場合、生きづらくない以外の「普通」の条件は非常に難しいところがある。MBTIで生きづらい人が多いとされるタイプ以外のタイプに、どれだけ共通点があるのだろうか。あるいは、それに該当する人は果たして「普通」と言えるほど多くいるのだろうか。なんなら生きづらいことが少ないタイプにも、生きづらいタイプとの共通点は見て取れるのだろう。
 「大人」になるための条件も、非常に曖昧であるように思う。なんなら、精神的・心理的に解決を求める手段として、「大人」という言葉はよく使われるように思う。「大人になりなさい」両親や、学校の教師からもそんな言葉を聞く気がする。
 発達障害やグレーゾーンとされる人たちも、未発達により支障がでている場合が多いと思うが、発達障害ではない人たちがみんな総じて、精神的・心理的に成熟しているのか、と問われれば、決してそうではないように思う。我が物顔で自分の利益ばかりを主張し、他の人に被害を被らせて反省もしない人たちが、その事の程度の大小あれ、多くいるのではないだろうか。実際に私も見てきたし、ネットでもそういった人は多くいるし、見かけたという話も多いだろう。実はそういった人たちも発達障害だった、ということもあるかもしれないが、「大人」かどうかというのは、発達障害があるかどうかよりも重要なことがありそうである。
 なんなら、社会の中で大成功している人や、偉人など、大半は「子供っぽさ」を持ち合わせているような気がする。情熱に満ち溢れて血気盛んな経営者も、言いたいことを恐れずズバズバ言ってくる人も、あるいは堕落したような生活の中で芸術を追い求めた芸術家も、そのある種欠点があるからこそ成功しているように思うのである。
 このように、「普通」「大人」というのはあいまいな理想論であるし、そもそも「普通」「大人」になれている人は、どこにもいないのではないかと思う。社会にいる人々は全く均一ではなく、それぞれに長所・短所がある。一定の水準を満たしている人がそれほど多くいるとは思えないのである。多くの人が思い描く「普通」も「大人」も、追いかけるための理想であるにすぎないのだろう。

 「大人」になるために、ほぼすべての日本人が通る道として、学校がある。教育基本法第一条には、教育は「人格」の完成を目指すことが書いてある。学校教育を経て、「大人」となっていけるように「人格」を高めていくことが第一の目的であるように思う。しかし、大学で教育学をかじった程度の知識で大変恐縮だが、本当に学校が「人格」の完成に向かっていけているのか甚だ疑問である。勉強の内容ばかり着目され、時代が進んだからと言って教育内容の増量ばかりが重視されたり、大学の偏差値ランク構造は受験戦争への過激な燃料となり、教員は多忙を極め、優秀な人材をほとんどとれず疲弊している。このような学校をでて、私利私欲や競争ばかりに触れ、果たして人格は完成するのだろうか。「人格」も「大人」同様曖昧な以上、「完成した」などと言い切れないにしても、向かうべき方向に向かえているとは思えない。
 また、大人による「学びなおし」も話題となった。社会に出てからも技術や情勢の変化が非常に激しいため、大学までの知識で食っていけるような一生ものの知識は身につかなくなっているのはその通りだと思うし、消費者として置いていかれないためにも重要である。「学校は出たからもう勉強はしない」などと言っている大人は減っているのではないかと思う。しかし、実学だけが「学びなおし」されるべきものではないように思う。「大人」はなっているものではなく、「目指すべき」ものである。また、「人格」の完成も、目指すべきものである。人間生きている以上、実学のみならず、精神・心理面にても、自分自身のこれまでを顧みて、より「大人」となるため、「人格」を高めるため、どうするべきかを思索し続けるべきであると思う。年齢を重ねたから、経験を積んだから、実績を残したから、偉い、それで終わりではなく、その先も随時見ていくべきである。
 子どものころ、過去に失ったものを理解することも時に重要となるだろう。夜無さんのこちらの記事で、「成長により失われたもの」の存在を自覚させられた。個人的には、100%の同意、というよりは、成長していくことで、確かに得られたものだけでなく、失われたものがたくさんある、という点に気づかされたのである。この感覚は、年齢を重ねたり、今だけを生きていると、忘れてしまいがちである。自分の後輩を見て、自身の過去に向き合うきっかけを作るのも重要だろう。
https://note.com/senno/n/nb7c98221aa27?sub_rt=share_pw

 全体としてみれば、面白い視点でものを言いたかったが、非常に普遍的で当たり前に思われてそうなことを書いてしまったように思う。(今までの記事もそういうものがあると思われる。)しかし、「当たり前」から確認していくことも、「効率的」とは程遠いかもしれないが、重要なことであるように思う。その重要なことを、今回も自分に言い聞かせる。

「普通」な人も、「大人」もいない。

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