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Mr.Children『miss you』ビターなコンセプトアルバムは深海の夢を見るか

2023年10月4日、前作『SOUNDTRACKS』から2年10ヶ月が経ち、Mr.Childrenの21枚目のオリジナルアルバム『miss you』がリリースされた。
公式HPにも「今回のアルバムは4人だけで集まりスタジオで作られた。New Album『miss you』はMr.Children史上、最も「優しい驚き」に満ちている。」とあるが、リスナーへの衝撃は「優しい驚き」という五文字に収まるものでは到底なかったであろう。

一方で先行リリースの二曲が収録されていないことについて、「それはつまり30周年を超えた「半世紀への長きにわたるロード」を、Mr.Childrenが再び走り始めたアルバムであることを証明している。」と先述のHPに記されている通り、「これから」を見据えて作られたアルバムであるともいえる。

また、本作に関して語られるトピックとして、アルバムのリリース日とストリーミング配信日とに1か月ほどの間隔が設けられている点が挙げられる。自分もこの情報を最初に見た際、落胆を禁じ得なかったが、聴いていくうちにその意図をつかむことができたので、それについても後述したい。

各楽曲感想

1.I MISS YOU

アコギの爪弾きによるリフから始まるミドルチューン。前作『SOUNDTRACKS』の音の良さを引き継ぎ、よりアコースティックサウンドを基調としたものとなっている。

アルバムの一曲目は歌詞にしろ、サウンドにしろ、そのアルバムの顔となるので、アルバムのカラーというものをバンと示す曲であることは間違いないが、冒頭の歌詞から

寝苦しい夜 汗ばんで
張り付いたTシャツのように
悪いイメージが離れないぜ

と語り手に対して暗い影が落ちていることが詞からもボーカルのトーンからも伝えられる。実際に、このニュアンスはこのアルバムの大部分に当てはまるものである。

この曲で語り手に「悪いイメージ」をもたらしているものは何か、それは「これまで繰り返し行ってきたものの確かさの揺らぎ・不安」であると考える。サビでの「I miss you  繰り返すフレーズ」「何が悲しくって こんなん繰り返してる?」「何が嬉しくて こんなん繰り返してる?誰に聴いて欲しくて こんな歌 歌ってる?」という歌詞はもちろんのこと、1番にも

淀んだ川があったって
飛び越えた その度ごとに
でも その意味さえ
わからなくなるね

とある。サビのフレーズのみであったら、作成者である桜井和寿(本noteではフルネーム敬称略で述べる)のミュージシャンとしての苦悩を述べた曲としてしか受容し得ないが、上記の歌詞があることによって、いくらかの一般性が付与されている。
人生の中で、何らかのハードルを越えるタイミングはある。しかしながらそれを繰り返した先で、何の意味があったのかと無意味さに打ちひしがれる時期が来るのだろうか、恐ろしい・・・。

サビのフレーズに改めて着目すると、やはりミュージシャン桜井和寿の苦悩が浮き彫りとなる。自らがこれまで作ってきた楽曲の存在意義のようなものまで揺るぎだしている。しかしこの問いはある種、幼稚であり、おそらく本人も答えが分かっているのに、再び立てたものだと考えられる。だからこそ、「それが僕らしくて 殺したいくらい嫌いです」というラストのサビにつながるのではないだろうか。

こういった、「誰に聴いて欲しくて こんな歌 歌ってる?」という問いをベースに作られた楽曲で思い出されるのはBase Ball Bear「それって、for 誰?part.2」だ。

それって、for それって、for それって、for 一体誰?
ひとりでくりかえす 地獄にも似てる 
ひとり討論してる 本当は分かってる

それでも、それでも、それでも、それでも、って
歌い続けてゆく with you

この「I MISS YOU」も含め結局「you」「君」に届けるために歌うのでしかないのではないか。「それって~」は小出祐介が30代で書いた曲だが、50代でもこの壁にぶち当たるのは、またハードルや壁の分厚さも大きく違うだろう。

2.Fifty's map~おとなの地図

「くるみ」MVをリブートさせたMVも話題を呼んだリード曲その1である本作。曲名や、サビの歌詞から尾崎豊の影が色濃く出ている曲である。
若者の代弁者尾崎豊は26歳で亡くなっている。前の曲「I MISS YOU」の「二十歳前想像してたより 20年も長生きしちまった」という歌詞はこの尾崎豊の存在と響き合うように感じられる。

楽曲としては、バンドサウンドを分厚いストリングスでまとめながら、サビは声を張って開けていくという形をとっており、本作がこのアルバムの中で最も世間での「ミスチル」像に近い楽曲と言えるだろう。それゆえリード曲にも採用されているのではあるが。個人的には『SUPERMARKET FANTASY』収録の「少年」が思い出されたロッカバラード?パワーミドルチューン?である。

この曲には、若者では表現し得ない、長く人生を歩んできたことによって希望には簡単に手が届かないことを悟った人間の成熟とその世代への同調・連帯の呼びかけが表現されている。
「つまらぬルールを破壊しながら 昂る鼓動を感じられたなら 嗚呼」「先のことなど何も恐れずに この瞬間に生きていれたら 嗚呼」このフレーズは1・2番のサビの終わりに出てくるものではあるが、いずれもあくまで「~なら」と心で思うばかりの言葉であり、過去にも未来にも逃げることはできないことを悟り「今日の日を這いず」るしかないことを重々わきまえている成熟した人間の現実的な諦念である。

「似てる仲間が ここにもいるよ 互いの背中讃えながら 行こう」とあるが、顔を突き合わせる必要はないのである、同じような立場にある存在を感じることができ讃え合うようなゆるやかな連帯が必要なのである。この語り手がミスチルのメンバーだとすると、大きなステージで観客の皆とは一線を画すような存在に見えるかもしれないが、そんなことないのだ、と呼び掛けているようにも思える。

3.青いリンゴ

全曲よりももう少しテンポの速い近作であれば「turn over?」らしさもあるようなポップソング。初期の楽曲のような印象を受けるが、それにしてはホーンセクションで楽曲の勢いを底上げするような編曲がとられていない。
管楽器については、間奏からラストにかけてサックスの演奏が挟まれるくらいで、どちらかというと渋みのある印象を受ける鳴らし方である。

「生まれ変わったら見たい世界があるよ」と話す「仲間」というのは、やはり若者世代とはいいがたいだろう。なぜなら、年齢が低ければわざわざ生まれ変わらなくとも新しい世界へ飛び込めばいいからである。
ここには、爽やかでかつアップテンポではあるが前の曲のような世代の存在が歌詞から感じられる工夫が効いている(「fifty's map~おとなの地図」との連関)。

すると、サビでの「季節は巡る」という言葉の指す意味も二つ考えられる。
「失ったものを悔やんでばかりいたって意味ないぜって歌ってた僕」であった季節がめぐるという観点。
②自省・内省の季節
である。1番はこの曲の歌詞に寄り添ったものである。この解釈の方が楽曲の枯れた爽やかさにふさわしい気もしている。しかしながら、様々な季節をくぐり続けて時を重ねるのが人間でもある。2番目の解釈はアルバム全体のトーンと響き合う解釈である。

歌詞の「青いリンゴ」というのはある種の「若さ」の比喩・象徴であるだろうが、前作の『SOUNDTRACKS』のつくりがビートルズ感が強かったので、ビートルズのレコードのアップルマークを思い出した。

この青リンゴ、かなり酸味の強い品種だそうだ。

4.Are you sleeping well without me?

個人的には現段階でトップクラスに好きな楽曲。
「失ったものを悔やんでばかりいたって意味ないぜって歌ってた」のではなかったか?と思わせるような前の曲と対になるような内容のタイトルである。「僕がいなくてもぐっすり眠れているの?」って…後悔と執着の塊みたいなタイトル。

「ドドン カッカッ(チッチッ…)」というひどくシンプルなドラムパターンで進行する楽曲、バスドラとリムショット?の音が気持ちいい…。前作『SOUNDTRACKS』の「others」のドラムもかなり音数少な目で、インタビューで引き算の美学を学んだ的な回答をしていたのを覚えているのだけど、非常にそれが効いている。

大まかには失恋の曲というくくりにできる曲だろう。
その曲の冒頭の歌詞が「明け方 エチュード引きたくなって 幾度もレミレドで躓いて」であるのは特徴的だ。
前の曲「青いリンゴ」との連関で考えるのであれば、練習曲である「エチュード」というのは「青いリンゴ」の未成熟さと結びつくものといえよう。
また、この曲の「失恋」という点との連関で考えるのであれば、何というか…曖昧なことしか言いようもないが、初歩的なことで決定的に人間関係がこじれることはあるよね…と思う。
そういったコミュニケーション・相互理解の齟齬が対個人であれば、ジレンマもある程度の大きさに落ち着くだろうが、ミスチルのように対日本国民みたいなコミュニケーションをはかっている場合、わかり合えなさのジレンマたるや、想像を絶するに違いない。

5.LOST

シンセベース入りのイントロカッコイイなあ!!
と思っていたら、早速

「くたびれた顔してるな」って
顔を洗うたび思うんだ
鏡なんて無くて良いや
こんな自分を もう見たくない

という強烈な自己否定。20代で桜井和寿が書いた「Innocent world」では「窓に反射する哀れな自分が 愛しくもある この頃では」と、否定と受容を両立させていたにもかかわらず、だ。

この余裕のなさ、失望感は何に由来するものなのか。それはサビに明らかにされるように「自分発信のものが思うように相手に受け止めてもらえないことへの失望・無力感」である。
前の曲のように対個人であれば、その相手個人のことを考えればよい。しかし対する相手の人数がもっと多ければ?語り手を桜井和寿と見立てた場合、その無力感・失望の大きさはどうか、「立ち尽く」してしまうしかないのではないか。

この曲はハンズクラップも特徴的であるが、楽曲を盛り上げるため入っているようには感じられない。歌詞とのつながりで考えると、「自分の思いを想うように受け止めてくれない相手の存在の大きさ」を表しているようにも、「桜井和寿という特別な立場ゆえに感じる特別な感情ではなく一般的に多くの者にも起こりうること」ということを示しているようにも聞こえる。

6.アート=神の見えざる手

「デルモ」のような横ノリなテイストに仕上がっており、「こんなのもミスチルできるのか」と驚くトラックメイクの一曲…、というより歌詞のインパクトが、であったり、桜井和寿のラップが、であったりということを述べるべきであるのだろうが、そういう気にはあまりなれない。
まず、ラップではないだろ…これは…。押韻に乏しい(押韻が顕著であればそれがすなわち「ラップ」になるとも思わない)し、フロウもさして強調してもない、「語り」としか言えないかと思う。

「マシンガンをぶっ放せ」「傘の下の君に告ぐ」「everybody goes~秩序のない現代にドロップキック~」「LOVEはじめました」「フェイク」…ミスチルの歌詞でいわゆる「刺激が強い歌詞」を挙げるとかなり多くの楽曲が挙がるというのは、ある程度彼らの楽曲を聴いたことのあるリスナーであれば、当然の事実であろう(この曲も前述した中では「LOVEはじめました」にテイストの近い曲と言えよう)。

その一連の流れにこの曲も位置づけるであろうが、この曲の一番刺激が強いところは規制音が入っている件なんかではなく、サビではないか。

安直にセックスを匂わせて
倫理 道徳に波風を立てて
普遍的なものを嘲笑って
僕のアートは完成に近づく
大衆を安い刺激で釣って
国家権力に歯向かってみせて
半端もんの代弁者になる時
僕のアートは完成致します

この曲の語り手を桜井和寿と置き、まず「アート=神の見えざる手」という曲名に再度着目したい。
「神の見えざる手」とは…ググると「「市場経済において、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分が達成される」とする考え方を指します。」とある。アダム・スミス『国富論』にある言葉である。

そして曲の中の「望まれたことに応えたいだけ 刺激が足りないってみんな言うから」というフレーズにも着目する。「望まれたことに応えたい」という話は『SOUNDTRACKS』のインタビューやB'z稲葉浩志との対談の動画でも答えている言葉である。

つまり桜井個人の利益の追求(望まれたことに応える)ことが、結果として社会全体の資源配分が達成につながるという話であり、この事態と「アート」が等号で結ばれるのである。

まさに「安直にセックスを匂わせて 倫理 道徳に波風を立てて 普遍的なものを嘲笑って」ということをこの歌詞では達成しているし、この曲のような歌詞の曲を世に放つというのは「大衆を安い刺激で釣って」いることでもあると思う。ここで太文字にしている内容や行動は「刺激が足りない」と言う「みんな」によって「望まれたことに応えた」ものである。それによって「僕のアートは完成に近づく」のだ。

「アート」と聞くと、資本主義から切り離された個人の思いを表現したもの、として捉えうることもあるだろうが、この曲では望まれたことに応え、望んだものがその供給されたものを享受し喜びを得る流れを「アート」と置いている。残酷に言うならば、この楽曲のようなものは「みんな」が求めていたものを求めているように作って提供した商品なのだと歌っているのだ。いや、怖すぎやしないか。

そして、前の曲で「自分発信のものが思うように相手に受け止めてもらえないことへの失望・無力感」を歌っていた割に振り切り過ぎてはいないか…?

7.雨の日のパレード

イントロからシンセの音で始まりリズムも打ち込みであってかなり浮遊感の強い楽曲になっている。これまでの「Drawing」が思い出されるし、山下達郎の「コンポジション」を代表とする打ち込みを基調とした楽曲も想起された。基本的にボーカルはオクターブユニゾンであるところも、前述の浮遊感に寄与している。

「美談色」という言葉は、かなり松本隆的な詩的表現だと思った。「春色」「映画色」など存在しない色を聴いた者の脳内に浮かばせた風街の詩人の影も見える表現だった。

「『遠慮はいらねえぞ思い切りかかってこい』と息巻いて 子供の飛び蹴りがミゾオチに決まって 体を屈める」とあるが、語り手を桜井和寿と置くならば、この「子供」はミュージシャンの後輩のことを言っているようにも感じ取れた。近年、ミスチルは後輩のミュージシャンとの対バンのライブを行ってきている。そこでの後輩のバンドの力量の大きさを目の当たりにして、「体を屈める」こともあったのではないだろうか。

8.Party is over

冒頭の「バーボンソーダ」と「party is over」という押韻は洒落てるし、「「岡村靖幸Part2」になりたい」というコメントを思い出すなれば、「バーボンソーダ」というフレーズを持ってきたのは岡村靖幸リスペクトか、と思わずにはいられないのだけど。

楽曲としては、前作にもあったような桜井和寿一人による弾き語りの曲となっている。サビの直前に微かに「ゥウン…」と鳴っているところなど、一捻り効かされているが。
個人的にはこの曲がこのアルバムの中でも最も救いのない歌詞の曲であるという印象を受けた。サビにその救いのなさが集約されている(/の前が1番サビ、後がラストサビ)。

過去に留まって/拘って
現在を御座成って/怠って
生きていくなんて/死んでいくなんて 愚か者の愚行
もう席を立って帰ろう/さぁ前を向いて歩こう
でも何処へ向かえばいい?
燃え上れもせずに/胸に手を当てれば
燻ってる炎を 感じるのに/暖かな炎を 感じるのに
/でも Party is over

「でも何処へ向かえばいい?」の前までを観ると、中村一義「キャノンボール」の「僕は死ぬように生きていたくはない」よろしく、今の生を力の限り全うすることへの前向きさを感じる。

しかし「でも何処へ向かえばいい?」という言葉が付くことで、むしろそれまでの文言が非常に虚しさを帯びた言葉に豹変する。
先述したような前向きな気持ちであることを理解し、進む姿勢も情熱も実感できるほどにはあるはずなのに、何処に向けてそれを放てばいいか分からなくなっているのだ。ただ進めないのではなく、進むべきであり進みたいのに進む道が分からないという状況に追い込まれているのである。

それを桜井和寿が弾き語りで歌っているのである。この歌詞の語り手にも桜井和寿の存在が大きい。30周年記念ツアーを「半世紀へのエントランス」へと名付け、さあここからとなっているタイミングで「でも何処へ向かえばいい?」という歌詞…。
1番では掠れがかったファルセットで、ラストではよりアタックの強い張った声で「何処へ」と歌う。さながら「HERO」でのサビの歌い分けのように。


9.We have no time

ここにきてバンドらしさのあるブルージーな曲が。これまでの曲だと「12月のセントラルパークブルース」が一番近しいか。強く押韻を意識したであろう歌詞をかなりガナリめの強い声で歌っており、こういう桜井和寿が聞きたかった!な人は多かったのではないだろうか。

この曲のサビは相反する気持ちをギュッとまとめている。

やり直すには/restartするには/また始めるには
We have no time

まだまだいけんじゃない?/何とかなんじゃない?
とか思っちゃう

ある程度の年齢を超えてくると、確かに時間はないのだが一方で経験によるスキルや見通しがつくのである種の楽観的な気持ちも強まる。しかしシビアな現実としては「思っちゃう」ばかりで、上手くいくことばかりではない。何ともビターなこの世の中よ。

このように、相反する気持ちをサビにまとめている形式をとっているのは前の曲「Party is over」も同じである。この曲との共通性でいうと、
「Party is over」→ギターを燃やすロックスター(ジミヘン?)
「We have no time」→ブルース・リー
という近しい時代のスターの存在を挙げるのも共通点として挙げられる。
『重力と呼吸』ではクイーンの楽曲のようなアレンジを見せ、音楽面からミスチルのメンバーの年齢を感じさせられたが、本作では出てくる固有名詞にもそれがにじみ出してきている。

10.ケモノミチ

リード曲その2である本作。リリースされた順番としてはこちらが1というべきか。個人的にはかなりの新機軸に感じたこの曲。前作『SOUNDTRACKS』で手に入れた芳醇で豪華なストリングスの音は背景にストイックにギターストロークを続けるという。少し「NOT FOUND」みもある気がしつつ。

ある種のここまでの総括じみた歌詞になっているように感じた。「時代の変化に翻弄される部分は大いにあるものの、結局自分が大切にするものは不変であるという真理との再会」みたいなものがテーマにあるように受け止めた。

「風上に立つなよ~」の件はSNSで迂闊なことを言えない現状を示唆しているし、続く歌詞も時代の変化を受け止めるのに必死な語り手の存在を明らかにしているものである。
そこから「君にLove Songを送ろう 月に爪弾いた 孤独のメロディ その耳にだけ残るように 声もなく歌う」という歌詞に到達するのは、本当に涙が出る。結局それに尽きるのかというのは、この曲だけでも、1曲目「I MISS YOU」との流れでもいえることである。
月に爪弾いた 孤独のメロディ」とはまさに「I MISS YOU」のことではないか。その意味では1曲目からこの10曲目までで一つのまとまりを持っていることが分かる。

11.黄昏と積み木

悪夢から覚めたかのように、これまでの楽曲とは緊張感が異なる。多くのリスナーが語るように『HOME』『SUPERMARKET FANTASY』に収録されているような穏やかさ・温かさがある楽曲である。(個人的には「水上バス」を思い出した。)

またサビの歌唱に関しては、再びオクターブユニゾンが用いられているかと思われるが、星野源「喜劇」が思いされるようなメロディだと思った。歌詞の内容としても、本曲は「君」との何気ない日常を慈しむものとなっており、「喜劇」も「家族」との「生活」の喜びを描いたものとなっているため、関連性も見られる。

曲名の中の「黄昏」は、人間の年齢に置き換えるとまさにミスチルのメンバーの年齢辺りを指すのではないだろうか。『重力と呼吸』でも「秋がくれた切符」という秋曲があったが、人生で迎えた季節として「秋」や「黄昏」に馳せる思いが強くなったのだろうか。

12.deja-vu

イントロのホーンの音から『REFLECTION』収録の「Jewelry」が強く思い出される。そこからは四分で打たれるキックが心地よく、まったりとしているだけでない気分を高揚させてくれる明るさがある。

「あぁ僕なんかを見つけてくれてありがとう」とサビ終わりで印象的に歌われるが、この言葉には2つの機能があると考えられる。
①前曲「黄昏と積み木」との関連:「黄昏と積み木」には「かくれんぼのように 上手に見つけるよ 君さえ気付かない 君の素敵なところを 一つずつ」と言う歌詞があり、その「かくれんぼ」というワードと響き合うことを意図したのではないか。
「僕」=Mr.Children:リスナーの「君」に見つけてもらえなければ、ミスチルは30年以上も活動し得なかったわけで、その感謝の意を述べているのではないか。
「僕なんか」と卑下した表現を使用しているけども、そんな矮小な存在ではないのですよ…。

そして、2:25あたりで微かに「ゥゥウ…」とフェイクを入れているのは、寝息的なことで次の楽曲につなげる工夫か?遊び心が効いているぜ。

13.おはよう

ここまでストレートなタイトルの楽曲がリリースされるとは…という驚きもありつつ、ここまでの三曲は1~10曲とは切り離された世界線にあるようであったが、アルバム最後のこの曲と、1曲目の「I MISS YOU」には関連が見られる歌詞がいくつか確認された。

まず冒頭の「おはよう」の一言は、「I MISS YOU」の冒頭「寝苦しい夜 汗ばんで」と対になっている。ここですでに、この曲が全体を一本の線でつなぐ役割を果たしている事がうかがえる。また、「こんなメロディができたよ」と「君」に躊躇なく届けるさまは、「I MISS YOU」で「誰に聴いて欲しくて こんな歌 歌ってる?」とこんがらがっていた様とは正反対である。
(途中「幸せすぎる食卓」というフレーズが出てくるが、だから「Fifty's map~おとなの地図」のMVが「くるみ」だったのかと思った…)

そして歌詞の生活感たるや。パートナーと自分の何気ない様々が溶け合う様子を捉えた歌詞は

Yeah いま入れなかったね 紅茶にMilk & Sugar
僕の好みをいつしか受け入れてる君
その方がおいしいって思っての事か知んない
我が強い君だから もうすげぇ愛しいんだ

TRICERATOPS「MILK & SUGAR」

「君に教えてもらったことだって僕の知識として育ってく君もそうかなってチクッとする」

Base Ball Bear「Summer Melt」

など様々あるが、この曲での

ゴミ箱の中に
君が昨日行った
スーパーのレシートが見える
こんな風に僕と
君の生活が少しずつ重なる

という具体性と、日常性の高さ…!ここを切り取り慈しむとは…!最後はバンドメンバー全員の音が鳴っており、ホーム感がある終わりとなっている。

総評

1.本作はガッッチガチのコンセプトアルバム

上記で各楽曲同士、特に10曲目までは前の曲の要素が歌詞に見受けられるという、徹底ぶり。前書きに述べた、リリースとストリーミング配信をずらした理由も、そこにあるのではないだろうか。頭から最後までの流れを聴き、全体の流れや歌詞の連なりを感じ取ってもらいたいという、ミスチルからのメッセージであったのかもしれない。

本作への感想として、「1~10曲目までの方がまとまいがよい」「最後三曲は雰囲気が異なり過ぎている」という意見がある。基本的には同意見である。しかしながら、最初の曲と、最後の曲の詞につながりがあることを踏まえると、切り離し得ないものなのだと確信した。

1~10曲目において明かされるような経年しても/したからこそ訪れる不安や失望は、11~13曲目のようなあたたかな日々の中でも「寝苦しい夜」があるように、不意に襲い掛かってくるものであり、その大きな影と日々の生活は表裏一体・薄皮一枚でつながっていることを示しているのではないか。

かつてミスチル現象ともいうべき注目を集めた20代で、ミスチルは非常に内省的かつも抑鬱的なコンセプトアルバム『深海』をリリースした。若き桜井和寿の苦悩・苦闘が刻み込まれているが、ある種の「わかりやすさ」があったように思う。それはメロディの起伏や各楽曲のフックもそうであるし、自らの陰鬱な心情を徹頭徹尾示しきったという仕上がりになっている。対して、50代で作り上げた本作は「わかりやすさ」をメロディから歌詞に至るまで抑制し、陰鬱な影が日常のあたたかな光を唐突に侵食する危険性を抱えた日々を示唆しているというモノトーンぶりである。
なんというものを創り上げたのだ、ミスチルよ。

2.なんだかんだ言ってもアニバーサリー感のある楽曲群

30周年を経て、タイアップからも解放され収められた楽曲群は、90年代メガヒット曲のような引っ掛かりが大きい曲ばかりでないものの、各曲感想の中で述べたように、自らがこれまで作り出した楽曲のエッセンスというものがにじみ出ている。

皆の想像する「ミスチルらしさ」を脱ぎ捨てているが、脱いでもわかる「ミスチル印」が濃く記されているのである。
本作はメンバーがプライベートスタジオで制作したそうであるが、前作に引き続きストリングスの成分がふんだんであり、バンドサウンドが控えめな内容になっている。前作での自身や成果をブーストさせたものだといえるのだろうか。ドラムの引き算ぶりは、叩いている曲でも感じ取れたほどであったが。

3.アルバム近作の中での位置づけ・今後への期待

「持てる全ての球種を投げた」アルバムである、セルフプロデュースアルバムの始まり『REFLECTION』からはじまり、現在の自分がどれだけスプリントできるかという問いにも向き合った非常にタフで肉感的な『重力と呼吸』、過去最高の録音でバンドを刷新してみせた『SOUNDTRACKS』と並ぶ中で本作は、『SOUNDTRACKS』を中心として『重力と呼吸』と反対に位置するアルバムだと考える。

本作の音としての魅力は間違いなく『SOUNDTRACKS』を踏まえたものであるし、その中でもストリングスの音の割合は大きい。アップテンポの楽曲や、叫ぶ曲がないわけではないが、薄暗く霞がかったトーンで統一されている本作は、『重力と呼吸』とは対照的なアルバムとして言えるだろう。

ここまでビターな味わいのアルバムが出るのは驚きであったが、このような作品を出せるのは、長いキャリアがあってこそのものでもある。その長年ミスチルを中心に聞いてきているファンには苦味が強い作品だろう。だから苦味に慣れさせるように配信まで時間を置いたのではないか。慣れたタイミングで世間の反応があるという流れかな、、と。あとは「アート〜」への即時的な反応を気にかけたものかもしれない。反動で次はもう少し明るさのある、フック多めな楽曲の並んだアルバムの即時配信リリースを期待したい。

また、本作は『SOUNDTRACKS』の延長線上の音世界を構築していながら、シンセ含め打ち込みによるトラックメイクが印象的であった。もちろんバンドサウンドがミスチルの魅力の一つであるし、近年はそこを改めて磨く年月であったことは間違いないが、桜井和寿の歌唱を生かすために様々なタイプの楽曲を作ることができる、という点もミスチルの大きな魅力の一つであることは間違いない。バキバキのエレクトロサウンドの楽曲が出てきても面白くなりそうだ。

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