虹のかけら ~短編小説~ 紅い記憶4
その日、イヤマさんのホステルを後にして、母のマンションに着いたのは結局、午後八時を過ぎた頃だった。インターホン越しの彼女の顔は元気そうで、少し安堵した。念のためにマスクをして彼女とは距離を取りながら、部屋に上がらせてもらった。
整頓された母の部屋のテーブルの上には保存用の密閉容器があって、その中に例のキムチが入っていた。真っ赤な色の液の中に、白い白菜が見え隠れする。
「オモニ、わたしの名前は?」
母は軽く手をふって、何いっているの、という顔をした。
「ミファ」
「昔、飼っていた犬の名前は?」
「ミミ」
「今、何処にいるかわかる?今日は何月何日?」
「二千一年、宇宙空間」
そういって微笑んだので、おそらく頭は大丈夫だろうと思った。どこか体で痛いところはないかと聞いても、特に痛いところも気持ち悪いところもないという。
「熱もないから。でも、いいから食べてみて」
あやういな、と感じつつも、でも母は大丈夫だろうという不確かな確信というものがあって、わたしはそれを口に入れた。
確かにそれはキムチだった。普通に売られている普通においしいキムチ。申し分のないキムチ。どこでも買える、それなりにおいしいキムチ。
けれども何かが決定的に欠けていた。味に奥行きが全く感じられない。市販の味噌を溶いただけの、深い出汁の味がしない味噌汁のような、そんな感じだった。
「まずいわけじゃないと思う」
やっぱりね、という顔をして、母は容器に蓋をしてキムチを冷蔵庫に片付けた。母の冷蔵庫の中はいつも少しだけキムチくさい。
「不思議なことがおこるのね、手順はいつもと同じなのに」
「あれが、もう食べられないって、ちょっとさみしいな」
母は何もいわなかった。母も少しさみしいのだろうか。彼女の気持ちを慮りながら、わたしは味を失った原因を考えていた。彼女ではなく、彼女の中の何かが記憶を失ったのではないだろうか。キムチを作る手が持っていた記憶。手に共存していた菌の記憶……。
「これたべる?」
母は台所の奥から紙袋をだしてきて、通販で買ったのよ、といいながらわたしに手渡した。中には柚子のジャムやゴマ油の香りのする韓国海苔のパックが入っていた。
「それから、これね、桜餅と桜のぼた餅、いつものとこの」
あまり派手なピンク色ではない、素朴な桜色の桜餅。それに並んで、青じそが入ったもち米の上に、桜の花がそっとのせられた桜のぼた餅。どちらもわたしの好きな和菓子だった。
「ミファちゃん、これ好きやろなと思って。まだデパートの食料品売場はけっこう人がいはったよ」
ありがとう、とわたしはいって、でもあまり人の多い場所には行かないでね、と付け加えた。そういえば晩御飯をまだ食べていなかったので、お腹が空いていた。夜だけど食べていいかと母に断って、ぼた餅を齧ると、口の中にさっぱりとした青じその香りとふんわりとした桜の香りを感じた。
「やっぱり、ここの和菓子はおいしいね」
いつもわたしたちは食べ物の話をする。それはもしかしたら何か別の話を避けるために、おいしい物の話や、美しい物の話をしてきたのかもしれない。
その日わたしは、明日から、母の知らない人と一緒に生活をするのだということを、いわずにおいた。
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