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シャボン玉

 風が強い、ようだ。

 晋一郎は食卓のテーブルに頬杖をつきながら、カーテンの隙間から見える握りこぶしほどの青空に向かって煙草の煙を吹きかけていた。

 最近、多く見かけるようになった大きなシャボン玉。風に影響されない、水も温度も関係ない。空を飛んでいるわけでもない、不思議なシャボン玉。

 「だからさぁ、なんでおまえは働かないんだよ。もう三十過ぎてるんだぞ?」

 マザコンって思われても仕方がないだろうよ。みっともねぇ。前田は垂れ下がった前髪の隙間から、上目遣いに田辺の方を見た。

 「べ、べつに他人に迷惑かけてるわけじゃないから、い、いいじゃん。お、おまえこそ、女房も子供もいるんだから、いつまでもフリ、フリーターなんかしてんじゃねーよ」

 田辺は左右の腕にしている腕時計とキッチンの時計を何回も見比べながら『ちっ、ちっ、キッチンの時計、十八秒遅れてるよ』と、軽く舌打ちをする。

 「はぁ?誰に向かってモノ言ってんの?」

 わかってねぇな。前田は肩を竦めて首を左右に振った。

 「俺はさぁ、ビッグになる男なんだよ。今はチャンスを待っているだけだから」

 チャンスが転がってきた時に、バリバリ仕事してたら辞めにくいだろう?なぁ!と、前田は晋一郎に相槌を求めたが、晋一郎は煙草を挟んだ指を宙に浮かせたまま、ぼんやりと外を眺めていた。煙草の先の灰が四センチほどになっている。

 昔、友人の行きつけのバーに行った時、マスター相手に変わったことを話している男がいた。

 人間が膜を作っている。そんな家族が一人でもいる家は、玄関の前に来るとすぐわかる。大きなプヨプヨの膜みたいなものが家全体を覆っていて、中に入りにくい。確か、そんな内容だった。

 あの時話していた膜は、このシャボン玉のことなのだろうか。

 「晋一郎。田辺のかーちゃんに頼まれて説教しに来たんだろ?おまえもなんか言えよ」

 おー?晋一郎は黒目だけを動かして、テーブルの向こう側を見た。

 向かって右の神経質そうな眼鏡男は前田。一週間前にぶん殴った男。その横に並んでいる猫背の大男は、仕事もせずに家でだらだらしている田辺。二人とも、小学校時代からの連れ。

 そうだった。俺はここにシフォンケーキやコーヒーを飲みに来たわけじゃなかった。晋一郎は落ちそうになっている灰を灰皿の中に押し込むと、すぐに新しい煙草を取り出した。

 「前田はやっぱり『田辺はこのままじゃマズイ』と思うか?」

 「うん。一緒の男として恥ずかしいね。さっき田辺のかーちゃんに『まだ一緒に風呂入ってるんっすか?』って、聞いちゃったよ」

 かーちゃんも自覚したほうがいいよな。前田は眼鏡の端を摘み上げながら、口の片方だけを動かしてニタリと笑う。

 「じゃ、田辺は前田のこと、どう思う?」

 「じ、自分を過大評価しすぎてるね。それに自分勝手。お、お金に困ると晋一郎くんに無理言って仕事をもらってるくせに、き、気が乗らないと絶対手伝わないしさ」

 さ、散々わがまま聞いてもらってるくせに、うえ、上から目線で言われたらさぁ、し、晋一郎くんじゃなくたってキレるよ。田辺は大きな背中を丸めながら、テーブルの上に落ちているケーキの屑を一粒、一粒、人差し指で押しつぶす。

 「でもさぁ、殴らなくたっていいと思わないか?」

 「そ、そうだな。確かに、殴るのは行き過ぎ、だと思うよ」

 晋一郎は、小学生の頃から先に手が出るヤツだったよな。前田と田辺は向き合いながら、同じタイミングで頷いた。

 「おいおい、いつのまにか俺が吊し上げられてるじゃん」

 晋一郎は背中を仰け反らせながら、大袈裟なリアクションでおどけてみせる。

 小学生の頃の三人は、特に仲がよかったわけではない。晋一郎はワルで、前田はパシリ、田辺はいじめられっこ。中学へ進学しても晋一郎は上級生と喧嘩をしては生傷を増やし、前田はご機嫌取りにマミーを買いにコンビニへ走り、田辺は上履きに牛乳を入れられていた。

 「そこは『愛』を感じるところだろうが。『愛』を」

 そうそう、そうやっていつも調子のいいこと言って誤魔化すんだよ。うんうん、へ、ヘタに頭が良いから厄介なんだよな。二人は声を潜めながら晋一郎に背中を向ける。

 「しっかし、おもしろいな。おまえたち、他人のことについては随分『まともなこと』言うんだな」

 晋一郎は噛んでいた煙草を口から離すと、楽しそうに声をあげて笑った。急にさっき食べたシフォンケーキの甘さが口の中によみがえる。

 「別に俺は、説教しに来たわけじゃないぞ」

 中学二年の五月頃、昨日まで仲良くつるんでいた友人たちが突然背を向け始めた。これが、人生の中で一度や二度は必ずあるであろう『シカト』というものだろうか。今度は俺の番か。ゆれる柳の枝を見ながら、晋一郎はそんなことを他人事のように遠くで考えていた。

 なにも変わらない生活のはずなのに、なにかが大きく崩れ落ちていく日々。一言も開く必要のない口の中はネバネバしていてとても気持ちが悪く、視界に入る自分の鼻の頭が変に気になり、全てが落ち着かない。

 そんな中、変わらず前田は毎日マミーを買ってきて、隣の席の田辺は「お、おれ、牛乳臭いかなー」と、頭を掻きながら横顔で晋一郎に話し掛けてきた。柳の葉が黄緑色に膨らんでいくことに気付く一瞬だった。

 「久しぶりに、田辺と前田と三人でゆっくり話したいと思ってさ」

 前田の家も、田辺の家も。大きなシャボン玉に覆われていた。中二の春に見えていた、自分の鼻先にあった変な膜。あれは外から見たらシャボン玉に見えたのかもしれない。晋一郎は、年を取ってからも変わらない二人との雑談を楽しみながら、シャボン玉を通り過ぎてくる心地よい風と黄緑色の春を全身で感じていた。

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