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聖ペトロ大聖堂(後編)

Papale basilica maggiore di San Pietro in Vaticano

教皇領には長い歴史があるが、ヴァチカン市国の歴史は意外と新しい。教皇領は6世紀頃の教皇が自らの土地などを教会に寄進したのが始まりとされ、8世紀半ばフランク王ピピンが北イタリアを征服した後、その土地を寄進したために広大な領土となった。18世紀末、ナポレオンのイタリア侵攻により教皇領は分割、併合され、教皇もフランスに幽閑された時代があった。ナポレオン失脚後のウィーン会議で教皇領はほぼ復古されたが、イタリア統一運動が始まると、1870年に統一を目指した王党派ピエモンテ軍は、教皇領を占領した。当時の教皇ピウス九世は抵抗し、自らを「ヴァチカンの囚人」と名乗って現在のヴァチカン市国に立てこもり、その後の教皇たちもヴァチカン宮殿に閉じこもったままだった。1929年、教皇庁はイタリアのムッソリーニ政権とラテラノ条約を結び、カトリック社会とイタリアの関係を改善し、世界最小、面積44ヘクタール(日本の皇居の約4割)のヴァチカン市国が誕生した。

城壁に囲まれたバチカン市国(Vatican City)

世界最小の国土に世界最大の教会があり、世界最大級の宮殿と博物館があるヴァチカン市国は、摩訶不思議な国だ。人口は800人(半数はイタリアに住む)で国家形成に必要な機関、裁判所、独自の新聞、放送局、郵便局、鉄道駅、免税のスーパーマーケットもある。行進曲も兼ねた荘厳かつ軽快な国歌「賛歌と教皇の行進曲(Inno e Marcia Pontificale)」もあり、他の国家と変わらない。軍隊はないが、イタリア側と往来が自由な聖ペトロ広場はイタリア警察の管轄、教皇庁内は、スイス人の教皇庁守衛隊(Guardia svizzera pontificia)が警備にあたる。最初の守衛隊は、教皇ユリウス二世により1506年に創設された。度々守衛隊の解散、再創設があり、1929年のラテラノ条約以来、再度教皇庁の守衛隊にスイス人が採用された。現在、135人の守衛隊がいる。
ルネサンス時代からの色鮮やかなユニフォームで、教皇司式の特別ミサ、式典、教皇宮殿などの警備にあたる。

6世初頭の教皇シンコマスの時代にバチカンの丘の旧聖ペトロ大聖堂の横に教皇の最初の館が築かれていたとされる。しかし、詳細は分かっていない。現在の宮殿の基盤は、12世紀のエウゲニウス三世(EugenioIII 教皇位1145-1153)の時代に築かれ、その後イノケンティウス三世(Innocentius III 教皇位1198-1216)とニコラウス三世(教皇位1277‐1280)が増改築した建物に遡る。14世紀に教皇が南仏アヴィニヨン(Avignon)に幽閑され、その後も教会の分裂が続いたためにラテラノ宮殿は荒廃した。そのため、15世紀半ばの教皇ニコラウス五世(教皇位1447-1455)は、古い聖ペトロ大聖堂の横にヴァチカン宮殿を築き、内部をドメニコ会出身の画家ベアト・アンジェリコ(Beato Angelico)に装飾させた。
現在教皇の住居として使用されている聖ペトロ広場に面した建物は、教皇ユリウス二世(Julius II 教皇位1506-1513)の時代に1508年から1519年にかけてアントニオ・ダ・サンガロによって建てられた。ユリウス二世は、世俗的であまりにも不道徳だったスペイン出身の教皇アレクサンデル六世(Alexander VI 教皇位1492-1503)が造営した教皇の館を好まなかったために新宮殿を造営した。

バチカン宮殿(Palazzi Apostolici)

ヴァチカン宮殿の庭にある教皇冠を表す松かさの噴水。高さ4メートルのブロンズの松かさの頂きから水が吹き出るよう設計されていた。ローマ帝国時代にパンテオンの近くのイシスの神殿を飾っていたが、最初の聖ペトロ大聖堂が建造されるとその中庭に置かれていた。両脇には聖天使城のローマ皇帝ハドリアヌスの廟を飾っていた孔雀のコピーが置かれている。孔雀の羽には目のような模様があり、すべてを見通す神、天使の知恵を象徴している。水を飲む一対の孔雀は、永遠の命の水を飲む信者を表し、復活の象徴ともされている。孔雀の肉は腐敗しないという言い伝えから、孔雀は不老不死の象徴でもある。

ヴァチカン博物館は、歴代教皇が蒐集した美術品のコレクションを展示している世界最大級の美術館。コレクションの起源は16世紀初頭のユリウス二世に遡る。美術館には歴代の教皇が蒐集した美術品の展示ギャラリーのほか、教皇たちがルネサンス期の名だたる画家たちに壁画を描かせたニコラウス五世の礼拝堂ボルジアの間ラファエロの間システィーナ礼拝堂も含まれる。ラテラノ条約でイタリアと和解した後に美術館の入口に二重構の螺旋階段が築かれた。このスロープを昇ると、最初の展示室、絵画館、彫刻が展示されているべルヴェデーレ(Belvedere)がある。

ピウス十一世(教皇位1922-1939)の命を受け、1932年に完成した絵画館。絵画コレクションはボルジアの間に所蔵されていた作品群。ここにはジョットの三翼祭壇、レオナルド・ダ・ヴィンチの「荒野の聖ヒエロニムス」、ラファエロ、カラヴァッジョなどの名品が展示されている。

絵画館の最初の大きなホールには盛期ルネサンス期の寵児、16世紀初頭のユリウス二世とレオ十世(教皇位1513-1521)に可愛がられた画家ラファエロの傑作が並ぶ。「キリストの変容」は聖ペトロ大聖堂内のクレメンティーナ礼拝堂(Cappella Clementina)の祭壇画ともなっている。祭壇画はモザイク画のコピー。

ユリウス二世は建築家ブラマンテ(Bramante)に依頼し、ヴァチカン内に大中庭べルヴェデーレ(cortile del Belvedere=見晴台の中庭)を造営し、そこに美術品を展示する計画だった。そこには宮殿上階にあるユリウス二世の居室から直接歩いていける場所だった。もともとオープン・スペースの中庭であったが、その周囲に漸次長い回廊が付け加えられ、巨大な建築複合体となった。当初、見晴らしの良い高台の中庭として設計が始まったことから「ベルヴェデーレ」と呼ばれる。回廊には教皇領を描いた長い地図のギャラリーなども含まれる。

ベルヴェデーレの中に「八角形の中庭(Cortile ottagonale)」と呼ばれる展示場がある。1763年のドイツの美術史学者ヴィンケルマン(J. J. Winckelmann)が教皇庁の古代美術監督責任者に就任してから、教皇クレメンス14世(在位1769-1774)、ピウス六(教皇位1775-1799)が古代美術品のローマかの流出を防ぐために、ピオ・クレメンティーノ美術館が造られた。その時代に、この八角形の中庭も造られた。ここにユリウス二世が蒐集した古典彫刻の傑作と言われるラオコーン像、太陽神アポロン像などが展示されている。

ラオコーン像はユリウス二世の時代にローマ市内のネロ帝の黄金宮殿の遺跡近くの畑で発掘された。ユリウス二世はミケランジェロを送り、評価依頼をしたという。トロイの神官ラオコーンが神の怒りに触れ息子2人と共に、神が送った蛇に絞め殺されようとしている場面を表現している。ダイナミックな作品はミケランジェロにも大きな影響を与え、近年ミケランジェロ制作説が浮上したほど躍動感溢れる作品だ。

ユリウス二世が教皇になる前の枢機卿時代に自分の領地アレッツォで発掘されたという太陽神アポロンの像。アポロンが弓矢で巨大な蛇ピュートーンを殺した場面とされることから「ピュートー(ピュティアともいう)のアポロン」とも呼ばれる。古典派の美術史家たちから古典美の極地とも評価されている。
ナポレオンのイタリア侵攻の後、ラオコーン像と共に戦利品としてフランスに持ち去られていたが、ナポレオン失脚後、バチカンに返還された。

地図の回廊などの長い廊下を突き進むとラファエロの間(Stanze di Raffaello)コンスタンティヌスの間(Sala di Costantino)ヘリオドロスの間(Stanza di Eliodoro)署名の間(Stanza della Segnatura)ボルゴの火災の間(Stanza dell'incendio del Borgo)の4つの部屋があり、ユリウス二世の執務室として1508年から1518年頃まで画家ラファエロによって壁画が描かれている。これらの部屋の壁画を描き始めた時、ラファエロは25歳、新進気鋭の画家だった。当初はラファエロ自身が絵筆を握っていたが、壁画を描き続けるうちにラファエロ人気は増大し、さらに聖ペトロ大聖堂の建築監督、古代美術品管理官なども与えられたラファエロは多忙を極め、ボルゴの火災、コンスタンティヌス帝の生涯などはラファエロのデッザンをもとに弟子たちが描いたと言われる。

ラファエロの間

署名の間はユリウス二世の図書室・執務室で、教皇庁裁判所として使用され、署名をしていたことからその名がついた。署名の間は4つの部屋のうち、ラファエロが最初に手がけた部屋で、教皇の図書室であることから神学、哲学、法学、詩作をテーマに描かれた。古代の識者が集う「アテネの学堂」は、ラファエロの傑作に一つに数えられている。

アテネの学堂」は、当時建設中だったブラマンテ設計の聖ペトロ大聖堂を背景に、中央に古代ギリシアの哲学者アリストテレスとプラトン、ヘラクレイトス、数学者エウクレイデスなどが描かれている。

中央の哲学者アリストテレスとプラトンは、手を天と地に向けて議論をしながら歩いている。髭もじゃのプラトンはレオナルド・ダ・ヴィンチをモデルに描いたとされる。

階段で肘をついて物憂げに耽る自然哲学者ヘラクレイトスはミケランジェロがモデルになっている。ミケランジェロは、ラファエロがこれらの部屋の壁画を描き始めた頃、すでにシスティーナ礼拝堂の天井画に着手していた。盛期ルネサンスの天才たちが壁一つしか離れていない場所で創造活動をしているとは! 芸術愛好家の教皇ユリウス二世もさぞかしご満悦だったことだろう。

右端の立像の中央、ストラボン(?)、プトレマイオス(?)、プロトゲネス(?)に囲まれて、こちらに顔を向けてチャッカリと自身ラファエロの肖像も。

一般的にはラファエロの間を鑑賞した後、システィーナ礼拝堂に入堂する。「システィーナ(Sistina)」とは、「シストの」、という意味で、この礼拝堂は教皇シスト四世が1475年から1483年にかけて被昇天の聖母マリアに捧げて築いた。ソロモンの神殿を模して長さ40.9メートル、幅13.4メートル、高さ20.7メートルの細長い長方形の建物とした。当初、礼拝堂の天井は天空を意味して青く塗られていたが、教皇ユリウス二世は彫刻家ミケランジェロに旧約聖書の創世記をテーマにした天井壁画を描かせた。さらに20年後、教皇クレメンス七世(教皇位1523-1534)は同じミケランジェロに最後の審判をテーマに祭壇画を描かせた。1878年以来、教皇選出の選挙(Conclave)は、システィーナ礼拝堂で開催されるようになった。

システィーナ礼拝堂

私はヨーロッパで数々の教会、礼拝堂、美術館の取材、撮影をしてきたが、自分の人生のハイライトと言えるのがヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の撮影だ。まさに記憶に残り、人生の記念ともいえる感動的な取材、撮影だった。
撮影するには教皇庁の許可証が必要で、その取得に2、3か月は要した。何とか許可証を取得できても、撮影数日前から教皇庁の担当者と入念な打ち合わせ。撮影は一般の訪問時間終了後しか許されないので、閉館後高い櫓の組み立てを始める。天井画は床から約20メートルの高さにあり、16〜17メートルの高さの櫓を組まなければならない。組み立てに3、4時間、翌朝の開館までに櫓を撤去しなければならないので撮影時間は最長2時間前後。大型カメラなのでピントを合わせフィルムを入れ櫓を降り、櫓の揺れが収まってからシャッターを切る。その作業を何度も繰り返している内に仰向けでピントを合わせるだけでも首が痛くなってくる。ミケランジェロは、天井を見ながら約4年間、毎日フレスコ画を描いていたか?と思うと天才を超越し神の領域、神業に辿りついたのでは? 自分の顔がパレットのようになったというミケランジェロの逸話もあながち誇張とは言えないと思った。
ミケランジェロは、主祭壇に近い場面から描き始め、描きながら床から天井画を見ているうちに躍動感溢れる大きな構図に変えている。総面積520メートル平方の天井に115人の実物大の人物が描かれている。

近くで壁画を鑑賞する栄誉に浴したお陰で思わぬ発見もあった。下から見ているとナカナカ細部まで見えないので、学術書に書かれていることも確証できないこともあるが、天井壁画中央の神がアダムに魂を吹き込む場面でアダムの左足にイヴの胴体がトロンプ・ウィユ(だまし絵)で描かれていたのを確認し、驚きを禁じ得なかった。

正面祭壇には、ラファエロの師匠でもあるペルジーノによる3枚の壁画が描かれていたが、メディチ家出身の教皇クレメンス七世は、その絵を排除し、ミケランジェロに主祭壇の壁一面に最後の審判をテーマに壁画を描かせた。約5年の歳月をかけて約200メートル平方の壁面に約390人の人物を描いた。一人ひとりは人物より2、3割大きく、ミケランジェロは一人で描いたと言われる。

世界最小の国土といわれるヴァチカン市国に、意外にも広大といえる庭園がある。庭面積は23ヘクタールで国土の半分強。その中には3ヘクタールの森林もある。ヴァチカン市国は緑が多い国なのだ。教皇たちのお気に入りの場所とも称され、水不足に悩まされたヴァチカンの丘で最も注意が払われた場所だ。聖ペトロ大聖堂の裏に庭に囲まれたヴァチカン行政庁があり、ピオ四世の小別荘、教皇専用散策路、ルルドの洞窟、噴水、修道女が耕す畑もある。
訪問が可能だが、ガイド会社を通してのガイデット・ツアーしか認められていない。
Visita i Giardini Pontifici vicino Roma (museivaticaniroma.it)

2世紀初頭のローマ皇帝ハドリアヌスの墓廟(Mausoleum Hadriani)として築かれた聖天使城(Castel Sant'Angelo)。590年にローマでペストが流行した際に天使が現れ、それ以来疫病が終焉したことから聖天使城と呼ばれるようになった。聖天使城正面には、巡礼者たちがローマから聖ペトロ大聖堂に向かうために橋が設けられていた。現在の聖天使橋は17世紀末に築かれ、橋の欄干をイエス受難時の聖遺物、茨の冠、槍、海綿(天然スポンジ)、鞭、爪、十字架、縛り付けられた柱、ヴェロニカのハンカチ、衣服とサイコロ、罪札板などを持つ10人の天使たちが飾っている。

円筒状で直径64メートル、高さ20メートルのレンガ造りの堅牢そうな墓は、5世紀始めにローマを取り囲む城壁の一部となった。6世紀末、教皇大グレゴリウス(papa Gregorio Magno 教皇位590‐604)が疫病治癒を願い、祈祷行列をして聖天使城前の橋を渡っている際に、墓廟の上に大天使ミカエルが現れ、持っている鞘を納めたことから疫病がなくなったと言われる。

15世紀末のアレクサンデル6世は、聖天使城に4つの稜堡を築き、周囲を五角形の堀と壁で囲んだ城塞に変えた。

その後、聖天使城はローマの名門貴族の所有となり、13世紀半ばのオルシーニ家出身のニコラス三世の時代に教会所有となった。その際、ニコラス三世は聖天使城と聖ペトロ大聖堂、教皇宮殿を結ぶ地上通路(Passeto di Borgo)を作り、一朝事が起これば聖天使城に逃げ込めるようにした。果たして、教皇たちは度々聖天使城に逃げ込む事態も生じ、1527年のローマ劫掠(Sacco di Roma)の際には、最後まで教皇クレメンス七世を守った187人の守備兵のうち、147人が戦死した悲惨な事件もあった。

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