多様性の時代の「私」とは

ryuchellさん、息子の名の由来は「人種差別考えてほしくて」 朝日新聞デジタル

今日Twitterでこの記事がトレンドに入っていたのだけれど、ほとんど批判のツイートでビックリしてしまった。
「自分の主張を押し付けるな」「子供に一生背負わせるのか」とか。
記事読んだら私はそう思わなかったけれど、今回これを書いているのは善悪をつけたいわけではなく、どうしてこうなっているのか、を考えたいからである。なんかこれって「多様性」に対して私が感じているモヤモヤに通ずるのかも、と。

私は、こういう言い方は全然好きじゃないけれど、所謂「マイノリティ」と言われるひとたちや、社会的に、一時的にでも、とにかく弱い立場になり得るひとたちに対して、優しく居たいと思っている。誰にも死んでほしくないと思っている。本当の死だけじゃなくて、心やそのうちの柔らかいところを殺さずにいて欲しいなと思っている。そう強く思うようになったきっかけは、またいつか、書くかもしれないし、書かないかもしれない。

じゃあ、何をもって「優しくいる」のか。ひとつは、その存在に「気づいている」ということだと思っている。彼らに対して、なにか直接的に自分からアクションを起こすのはまたこちらがカテゴリー化しているように感じてしまって、私はできない。でも、ちゃんと、気づいています。それを主張するには、例えばLGBTQ+に関する作品をみているよ、って臆せず言うこと。考えること。それを誰かに言うこと。

女の子と付き合っている友達が、「どう思う?」って聞いてきたことがあった。私は彼女に対して「別に何も思わない」と答えた。彼女は私に笑って欲しかっただろうし、ある程度のネガティブな言葉は予想していた、むしろ期待していたようにも見えた。この「何も思わない」が私のスタンスなんだろうなと思う。もちろん本当に何も思わないわけではない。でも、その存在に気が付いていながら、敢えて干渉することはしない。彼女が本当の意味で望んでいることを殺さないことを考える。無論、「優しくいたい」なんて露骨な言葉にはしない。

そういうことを繰り返しながらふと自分を見た時に、ものすごい不安に襲われる時がある。私は?私は何を望んでいるのか、と。

「優しく居たい」と思うあまり、私は私自身のアイデンティティや生き方までも変えようとしていないか、と。例えば、私の性的指向は?正直、分からない。でもこの「分からない」が、本当に「分からない」のか、誰かを「守りたい」のか、それももうわからないのである。誰かを守りたいあまり、いつか私は私が本当に望む方の反対を選択してしまうのではないか?と怖くなってくる。不安になってくる。結局その存在に気が付くためのカテゴリー分けが、どこかに属していなければいけないように思えて、私にとっては生きづらいのかも。

この話をなんでしたのか、というとryuchellさんの考えや振る舞い、行動が、私が生きづらい、と感じているところに似ているなと思ったからです。
自分は何者か?自分が果たさなければならないことは何か?多くの人が自問するこの時代に、自分自身がメディアになる時代に、彼は自分の果たすべき使命を子供の名前に託したのでしょう。これって、私の「いつか自分が望むことに反する選択をするのではないか」という不安や怖さの種がついにその芽を出し始めているということではないかと感じたんです。恐らくほとんどの批判にはこの怖さが潜んでいるのでは、と思う。

こうやって多様性がなんだと言われるようになった今、やっぱり、自分が知らない存在や分からないことに出会うことは、心の奥の奥の奥では怖いと思っていることに気が付く。そしてそのような存在に、自分が変えられてしまう、という可能性にも気が付いている。

だから、どう生きていこうか、という答えにはまだ至っていない。けれど、こうやって葛藤して考えて、言葉にしながら揉まれていくことが、多様性の時代を生きるということなのかな、と思う。



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