見出し画像

【拝啓 私】未来がどうなるか不安だった時の私へ【手紙note】

※この記事は「投げ銭型投稿」です。無料で全てがお読みいただけます。※

拝啓 私へ

お元気ですか?

これを見ている私は、いつの時代の私ですか?

どの私でもいいから、見てくれてる事を願って書きますね。

今の私が生きている時代での大きなニュース・・・

ではなく、

今日は私が昨日体験したことについて書きます。


昨日私はPTA会長として小学校の学校協議会に参加してきました。

小学校の現状の教育方針や取り組み・それによっての反響をシェアし、

意見を求めるという会。


そこでの話の中で私が言ったのは、

「学校側が子供に伝えている勉強以外の整理整頓や廊下を走らない・整列などの、

日常生活での当たり前を、

意味も含めて教えていますか?」ということ。


これは子供にも大人にも言えることだけど、

習慣化したことってなんでそれを自分がやっているのか、

もうその意味すら考えずにやってしまっているのが現状。

自分の行動なのに何故しているのか把握・理解せず、

そこに疑問も持たずにやっていることが癖付いてしまっている。

教わったことにどんな意味があって、

それをすることによって、

何が良くてどういう弊害があるのかを自覚した上でやっていることって少ない。

そういった当たり前の行動の繰り返しで生活が回って行ってる現代人を、

学校教育もその量産に加担していることについてどう考えているのかという問いだった。

もちろん学校側だけの責任ではないし、

親という立場にある私達も考えていかなければいけないこと。

だからそれを一緒に考えていける場を設けませんか?という提案をした。


学校の先生方は、

「子供達も喜んでいます」だったり、

「勉強になったよと言っています」とか、

あたかも代弁しているような事を言っていた。

それは先生方の認識であって、

果たして子供が本当にそう思っているのかは度外視してはいないか?

という疑問があった。

自分が思ったり感じたりしてることが、

他者も同じであるという認識を持てる根拠がどこにあるんだろう。

そう思いたいだけじゃない?って思った。

先生でさえ自分の思考や認識に対して真摯に向き合っていないように感じるのに、

子供がそこから学ぶことは新しい知識を固定観念として定着させてしまい、

柔軟な想像力や創造力・問題発見能力を生み出す思考が失われていくのではないかと危惧した。


私の意見に対しての学校側の返答は、

「しっかり取り組んでいます」という前提の話だった。

意見を求めておいて、

自信持ってやってる前提で話を聞いているのであれば、

話をする意味もない。

善処や改善する前提で聞いていない話は、

ただの時間と思いの無駄でしかなかった。

受け入れる姿勢というのは、

出された意見を基に話が進むことであって、

受け取った人の主観を基にして進むことではないと私は思ってる。

自分の正しいと思う道に疑問を持てない人間は、

人に自分の正しさこそが正しいと主張することしかできない。

人の意見を柔軟に取り入れて、

相手の立場になって物事を考えることは到底望めない。

人が人を育てることの難しさを痛感した出来事でした。



さて、今の私の話はここまで。

これから本題に入っていこうね。

今日私が伝えたい事、

それは【未来がどうなるか不安だった】ことについて。


先の事は何も保証されていない。

誰も保証してくれない。

それを考えると未来に対して不安になるよね。


どうですか?

未来への不安を今も抱えていますか?

どうやったら未来は明るくなるかの答えは出ていますか?

今、生きてて良かったと思えていますか?

正直言うとね、

今の私はその答えを見つけることができました。

もしこれを読んでいるいつの時代かの私が、

未来が不安でしかたないのであれば、

これを見て一つの参考にしてもらえると嬉しいです。



先の不安を解消するために今を生きる。

これが世の中の当たり前だよね。

それは今の私の時代でも同じだよ。

一ヶ月後の生活費の不安から働き、

老後の生活の不安から貯蓄や積立をし、

「仕事をする」ということに人生の大半を費やしています。

今の時代の年間での平均休日は120日。

実に人生の1/3は仕事をしてることになります。

120の休日の全てが楽しいことをしてるわけじゃなく、

体調崩していたり、

体力回復のために休憩していたりの日もあるから、

丸一日楽しいことをしている日はほとんどありません。

年間で楽しい時間を過ごしているのは何十時間あるかな・・・


この文面だけ見たら、

この生活どう思う?

この人生って理想的に見える?

子供がこの現状を大人になったらみんなやってるんだよって教えて、

なりたいと思うかなぁ・・・

なんでそんなに楽しくない生き方してるの?って素朴な疑問が出てこない?


好きでこんな生き方してないわ!

仕方ないじゃん!

こんな声が聞こえてきそうだけど・・・


今の延長が未来に繋がるよね。

これは誰にでも言える事だと思う。


じゃあ質問。

未来が不安で頑張ってる今の生活の延長に待つ生活はどんなものだろう?

安定や安心な生活が待っている予想ってできるかなぁ?

今頑張って未来の為に尽くしていれば、

頑張らなくてもいい未来が待ってると思う?


私はそうは思わなかった。

未来が不安で頑張ってる今の延長の未来には、

未来が不安でさらに頑張らなきゃって思う未来があると思った。


そもそも未来の何に不安を感じてるんだろう。

大半がお金って答えると思うんだ今の人は。

お金って何の為に必要なんだろ?

お金を持つ為に頑張ってるんだろうか?

違うよね。

だってお金は使わなければただの紙や鉱物でしかないもん。

お金は何かをする為の交換材料として必要なツールとして重要視されているのであって、

本当に欲しいものはお金そのものじゃないはず。

お金を使う事によって得られる商品やサービス。

さらに言えば、

その商品やサービスを使って満足や幸福感・充実感を得る為だよね。

お金は目的ではなく手段。

最終的に欲しいのは、

自分の安心や安定などといった、

俗に言う負ではない感情を得ることだと思うんだ。



未来に対する不安というのは、

「先のこと考えると足りないと困るから」

っていう動機で動いてると私は思ってるのね。


・・・あれ?

ちょっと待って。

足りない?

なんで足りないと思えるんだろう。

おかしいと思わない?

足りないって思えるってことは、

私って足りてない経験、

つまり満たされたと実感した経験があるってこと?

だってそれないと足りないって思いようがないよね?

私は満たされるってゴールに向かって頑張ってるん・・・だよね。

満たされるイメージが・・・過去にあったかなぁ。。。


もしかして私は

ゴールの解らないマラソンを走り始めえはいないか

そう気付いてしまった。

これではただ疲れるだけでゴールは死だって思った。

そんなのまっぴらゴメンじゃん!?

だから考え始めた。

ゴールを設定しようって。



私は足りないを作り出した原因を探し始めた。

なかなか見つからなかった。

そりゃそうだよね。

考えたこともなかったから、

どこから探せばいいかのヒントもないんだもん。

相当運が良くなきゃ、

ラッキー見つかったってことはない。

大体は見当違いなとこ探してた(汗)

見つけた時には疲れ切ってた。

普段探さないところにあったから。

大体探し物するときって自分の外側探しちゃうじゃん?

在るわけないよね。

だって

足りないって思うのは自分の心だもん。

自分の中探さなきゃ見つかるわけない。

これ思い付いた時は正直力抜けたよ。

答えは常に全て自分の中にあるんだよね。



「足りない」の原因は

ただの根拠のない不安感から来てたことが解った。

お金が無い事への恐怖、

対処できない事への安全策の確保、

期待できない年金への不信感、

定期的に上がる消費税や物価。

いろいろなお金で解決できそう問題の数々が原因で、

いつしか「お金を稼ぐこと」という一括りにして、

仕事をガムシャラにしていたんだという答えに行き着いた。

これで「足りない」の原因は解った。


次にゴールである「満たされた」のイメージの捜索

ん~。。。

お金で満たされた経験ってあったっけ・・・?

欲って止まらないからなぁ。。。


あ、違う。

またやっちゃった。

お金は手段だった。

私はお金が欲しいんじゃない。

お金によって得られる何かが欲しいんだった。

はいやり直し。


・・・ん?

アレ。。。

私考えようによっては、

確かに欲はあるけど、

今「生きれてること」には問題はないぞ。

住む家ある。

着れる服はある。

食べるものもある。

今この瞬間にお金使ってない。

電気は今使ってるけど、

電気代を毎瞬払ってるわけじゃない。

問題あるか?と問われれば、

大きな問題は。。。ないぞ?

お金今握り締めてないと不安ってわけでもない。

欲出し過ぎて「これじゃなきゃダメ」って、

自分で勝手に選択肢を限定させすぎなきゃ、

結構今何とかなってない?


車無くても誰かに乗せてもらえばなんとかなる。

息吸えるし、

喉渇いたら散歩がてら公園行って水飲めばいい。

お腹空いたら、

「ちょっとご飯食べさせてくれない?」

って言えば最悪食べれないこともない。


あれ・・・

欲出さなきゃ結構足りてないか?

欲はほとんどが土台のプラスアルファであって、

それがなきゃダメってものじゃない。

欲と最低限必要な生活をごちゃ混ぜにして考えてた。

なんで足りないって思ってたんだろ?



そこで気付いたのは、

「今満たされている」という視点で現実を見たことがなかったんだ。

「足りない」という視点でしか見てなかった。

盲目的に「足りない」って思い込みで今と未来を見てた。

「今問題ある?」っていう視点を、

一番基本的な部分から見てみるって視点は今迄発想にもなかった。

足りてないものもあるけど足りてるものもあったんだ。

「足りない」としか見ることができずに、

それを問題だと決めつけてしまっていた。

見方が無意識的に固定してしまうことで、

自分で自分の苦しみを作ってたことを私は知ったよ。


さっき思ったように、

私以外の人に頼るって選択肢はダメだと思ってた自分が居た。

困った時は頼ればいいし、

困った時は頼ってくれたら、

やれる範囲でやってあげればいい。

助け合うって発想がなかった。

自分のことは全部自分だけでやらなきゃいけないってどこかで思い込んでた。

そんなこと誰からも決められたわけじゃないのに。



余裕の持てる部分って人によって違うと思う。

例えば、

家のお風呂って私が使うのせいぜい長くても2時間くらいじゃん?

それ以外の時間って考えようによっちゃ使ってないから余ってるんだよね。

実家が米作って送ってくれる人は、

米が多少余る程持ってるかもしれない。

もしかしたら特別ボーナスでお金が少し余ってる人もいるかもしれない。

居ないなんてこの世を決め付ける根拠はどこにもないでしょ?


もっと自分が余ってるものと、

人が余ってるものが共有できれば、

案外助け合いで大抵のことはうまくいくんじゃないかな?

そう思ったらさ、

未来のことも少し気が楽にならない?

もう少し人と共有することで、

今を楽しんで生きることも選択肢に入れてみてもいいかもね。



「私のことは全部自分でしなくていい。

余ってるものの共有をするって選択肢も

柔軟に持っておくといいかも。

持ちつ持たれつ。

お互い様精神」

これって普段から気にしておくと、

緊急時に本当にお互いの役に立つよ。



ひとつだけ付け加えると、

貰うばかりになりすぎないようにねってこと。

考え方や捉え方を変えると、

余ってるものも結構あることに気が付くけど、

何事も出ないと入ってこない。

自分の器をコップに例えるなら、

今まで足りないと思って注いでた水は、

溢れていたことに気付かずに注ぎ続けてたってことになる。

そしてその器は、人間性によって大きさが変化する。

人に分け与えらえる度量の合う人は、

人から感謝されて器を人が大きく満たしてくれる。

自分の余ってるものを自分だけで独占して分けず、

人から貰う事しか考えない人は、

その自分勝手さに人が離れていき、

自分の器は萎んでいくと同時に、

満たすのは自分だけでしていかなくちゃいけない。

周りとの和を大切に助け合って循環を目指すか、

自分さえよければ良いって考えで狭い枠に閉じこもって生きるか、

これを見た私ならどちらを選びたいかな?


自分が何か新しいものを手に入れた時、

必ず余るものが出てくる。

余るものを見つけたり、

敢えて作ってみるってことをしてみるのも、

心のゆとりを作るのにも、

人との繋がりを作ることにもなるから、

たまにやってみるのも良いかも。


余ったものはどんどん分け与えていってね。


頑張れ私!


これを読んだ私の心が、

少しでも自由と自分らしさを大切にして生きられますように。



                         敬具



追伸

そうそう、

これを読んでる私やその知人友人に

「毎日変化がなくて面白くないって言ってる人」って居る?

もし居たらこれ読むと参考になると思うから載せておくね。

ここから先は

20字

¥ 300

広大な仮想空間の中でこんにちは。サポートもらった分また実験して新しい景色を作ります。