見出し画像

趣味の欄に「国づくり」ってだいぶおしゃれ

今、自分がやってることがだいぶ楽しいから、
「みんなもやろうよ!きっとやりたいことに繋がるよ。」
って思うんだけど、


なんせ、意味とか価値とかをうまく伝えることが苦手なもんで、
思ったこと発信することしかしてない。

完璧なまでに不完全だから、
誰かの手を借りないと、形が上手く作れないから、
色んな人との出会いを楽しみながら、ゲーム進められるし、
人間生活楽しめるっていう特権だとおもって、
楽しむか。


理想の生活を作るっておもしろいと思うんだよ。

自分を変化させて、理想の生活をつくる。

自分の変化について、ふっと考えた時に、
仕事を変えるとか、引っ越すとか、そういうの思いつくと思うけど、
もちょっと自分の範囲をでっかくして考えるとおもしろいよ。


どこまでが自分?
この身体で区切られた範囲が自分?


なんでそう思うの?

誰かがそういってた?


なんでか知らんが、人はこの身体の範囲が自分だと思っている人が多いらしい。

「自」ずと「分」かれちゃた範囲がそこなのかな。


自分ってもっとおっきいと思うんだよね。

線って誰が決めた?

線引きをするのは、私の意識だ。


例えば、今パソコンでこの文章書いてるけど、
ある意味、パソコンも自分だよね。

私が、ボールペンで文字を書くとき、
文字を書いてる手までが自分?

握ってるペンも一緒になって動いてるし、
そこから描き出される文字・考えも私じゃない?

そしたら、紙も私だし、
それを読んだ人もわたしじゃない?

あなたもわたしで、

そうやって広げて考えていったら、
全部自分じゃん。


どこまで自分と思うかで世界は変わるよ。

大切なあの人、家族は自分。

だから、親身になって、自分事だと思って、
悩んでたら一緒に解決しようと思うし、
家族の中では、お金も一緒に使う。


子供におごってあげてると思いながら、
外食する家族はいないじゃん。


どこで線を引いた?
なんで線を引いた?


全部自分なのに、
得とか損とか、わざわざめんどくさい。

それは、何かを持ってしまったから生まれてる

変な分離意識だと思うんだよね。


私のもの


っていう所有感。


「私のものを私じゃない人にあげる」っていう意識が、
人を世知辛くさせる。


そして、その背景には、

私のものを所有するために、
苦労した。頑張った。我慢した。っていう
感情の労働が隠されてるんだよね。

だから、それに見合うものをくれなければ、
フェアじゃない。

そういう感覚。


それが、ダイレクトに表れるのがお金さんだったりする。

もってるティッシュを誰かにあげるのはそんなに気にならなくても、
お金をあげるのには、ちょっと抵抗があったりする。


なんでだろ?って考えたことある?

わたしは、ずっとこんなことばかり考えていたよ。


例えば、言葉だって、相手にあげてる。
アドバイスとか、意見とか。
でも、「損した!」とか、おもわないじゃん。


でも、お金さんが動く時に、よくわからないブロックが発動する。


そうやって、環境から教育されてきたから仕方ないんだけどね。


お金さんから、我慢とか、辛さを開放したいな。


やりたいこと、心地よくやってお金さんが回ってくるシステムだったら、
気持ちよく次の人にパスできるのにね。


お金さんは誰かのものじゃない。
みんなのもの。だから、所有しなくていい。

誰かのお金が自分のとこに来て、ちょっとの間一緒にお茶して、
じゃあねーって、次の人に会いに行くくらいの軽さで、
経済回したいね。



さて、
理想の生活を作る話に戻るけど、
自分を変えたら生活が変わる。


自分とは世界だ。
宇宙全部、自分。

そこに余計な線はひかなくていい。

世界全部が家族で、その中でぐるぐる色んな流れ作りながら、
一緒に時代という作品をつくっちゃう。


今ハマってるのは、「国創り」
私としては、海の見える一軒家に引っ越そう!くらいのライフスタイルチェンジの気分で、
やってるんだ。

気持ちいいとこで暮らしたいじゃない。
住む土地も家も環境。
人間関係も環境。
社会システムも環境。

すでにある選択肢の中から、好きな環境探すのもいいけど、
気にいる家がなかったら、みんなで建てたらいいじゃん。

おもしろいんだけどなー。

こうやって独り言言ってたら、
いつか、素敵な人に会うんだ。

世界に、頭の中を記述していたら、
どこかで誰かが見ちゃうんだ。

おもしろいなー。
さて、誰に届くかな。

今度は、どんな人に会えるのかな。

一緒に遊ぼう。

広大な仮想空間の中でこんにちは。サポートもらった分また実験して新しい景色を作ります。