第51話|コミュニティは機能を終えたら消滅するのがいい|セーブポイント総括(3)|チーム・コミュニティづくりについて思うこと
前回に引き続き、セーブポイントという拠点の運営を通じて得た視座の共有。
人間関係の理想系を作りたくてコミュニティを立ち上げ、役割が終わったことを感じ、消滅させるまでの話。
セーブポイントの裏テーマとコミュニティを作ろうとした話
セーブポイントを始める時、表向きは「誰でも帰ってきていい家」としていた。そして、それとは別に裏テーマを設定していた。
裏テーマとしてのセーブポイントは人間関係のモデルルーム、そして共同体・経済圏ラボ。この2つの部品からなる作品だった。
表向きはただみんながやってきて交流したり、泊まったりする場所。そして、わたしたちにとってセーブポイントは「自分たちの考える理想の人間関係・コミュニケーション・暮らし方・生き方を体感できるインスタレーション作品」だった。
いわば、あの場所はずっと個展を開催中で、来た人は鑑賞者であり作品そのものという構造だ。
「そんな風に生きられたら理想だよね。そんな風に人と話せたらいいよね。でも現実は・・・」という現実を完全に無視して、こうだったらいいなをそのまま落とし込んだ体感作品をつくりたかった。
言葉で理想を伝えても伝わらないんだったら感じてみてよ、という気持ちで場を用意して、公開して、参加を呼びかけた。
理想の場所を提供しようとしていた初期
なので、最初の方は「どうやったら来た人が、自分たちが理想とする人間関係を体感できるか」と色々試行錯誤していた。
モデルルームの中にいる人が家の説明をするように、来た人に「自分たちはこういう人間関係や生き方をしていったらいいと思っているんですよ」と直接話したり、日々の交流の中で現実世界では感じられない心の自由状態の体験をしてもらうべく意識的に色々していた。
閉鎖空間に桃源郷を作ってはいけない
しばらくやっていたら「セーブポイントの雰囲気いいよね」という感想をもらうようになった。そのあたりで、あれ?なんか間違えたかなと思った。
セーブポイントはどうでもいいから、セーブポイントで過ごしていた時の本来の心地よいペースで生きている自分の方に目を向けて欲しかった。そして、その後もその自分で生きていって欲しいと願っていた。
だけれど、遠方から遊びに来て帰っていった人から、セーブポイントにいた時は自由にやれてたけれど、自分の家に戻ったら元々の環境とのギャップに悩んでいるというような相談ももらった。
こっちにいた時は、のんびり楽しそうに過ごしていた人が、今はあまりうまくいっていないという話も入ってきた。
環境を提供することは、あまり得策ではないのかもしれないと思った。
なんでこうなったんだろうと考えた時に「ああ、自分が作った理想の世界にみんなを呼び込んでしまったからか」と思った。ディズニーランドの中でははしゃいで楽しんでいた人が、家に帰ってからは同じようにはしゃげないように、条件に限定されたひと時の非日常を提供していたにすぎなかったのかと反省した。
同時に、世界は本来自分で作るものなのに、そこを十分伝えられていなかったのかもしれないとも思った。
理想としていたのは、一人一人が理想の世界を自分で作れている状態だった。そうすれば、心地よさの原因は常に自分側にあり、どこにいても心地よく過ごすことができる。
心地よさの原因が外部にあると、快適な環境を提供されなければ自由でいられない状態を招く。
それは望んでいなかったし、いつのまにか「自分がただ表現したいからする」のではなくて「こう思って欲しい・こうして欲しい」という他者のリアクションを含んだ理想系を願っていた。
これは、純粋じゃないなと思って、環境を提供しようとするのをやめた。
表現者として、鑑賞者の受け取り方を固定したくない。こう思って欲しいという意識が発生しているということは、それは純粋な表現ではなくなっていることだ。思わせることではなく伝えることにエネルギーを使っていたい。
ちょうどその頃は、セーブポイントで出会った人々の人間関係が網の目のように絡み合い、理想とする人間関係の状態が近い人々が物理空間を超えてつながりあってきた頃だったから、もう場や理想とするものを提案しようとする役割もいらなくなったことを感じた。後はすべてが自然にうまく行く流れに乗ったように見えた。
そして、これからは「みんなでやる」を、「ひとりひとりがやる」にシフトチェンジして物事を組み立てた方がいいな思った。
そして、セーブポイントは方向性を変える。コンセプトのない・説明のない・目撃した人がそれぞれ感じとったものの集合が、それそのものである都市伝説になろうと思った。
これが2018年6月頃。
もうセーブポイントという物理的な場所はいらなくなったと感じていた。
そして、都市伝説へ
そして、セーブポイントは始めてからちょうど1年の2018年10月2日で静かに幕を閉じる。
支援をもらった分の責務は果たした頃だろうと判断した。
セーブポイント運営を通じて出したコミュニティに対してのアンサー
価値観で集う型のコミュニティは役割を終えたら消滅するのがいい。
価値観の近しい人を集める道具として、コミュニティ立ち上げは有効だが、出会い、繋がり、理想状態の共有が取れ、それぞれのやりたいことが明確になったら、機能的には不要になる。
やりたいことと方向性が定まり、自ら人間関係ネットワークを構築することができ、時々その人間関係ネットワークの中で部分最適化して動くことのできる個人にとって、コミュ二ティは時に枷になる。
裏を返せば、個人がこの状態になるまでは、価値観で集う型のコミュニティは教育的に機能する。しかし、コミュニティ自体が、卒業か、コミュニティ自体が終了するという機能・文化を有していないと、個人は成長しない。そのコミュニティが理想の環境を与え続ける限り、自分で自分の世界を作る必要がないからだ。
コミュニティは目的ではなく道具だ。
これからは、その方向性で活動をしていこうと思っている。
記:サカキ
次→人間関係の話。
広大な仮想空間の中でこんにちは。サポートもらった分また実験して新しい景色を作ります。